『1000年たどる家系図の物語』 第六章 また家系図はじめました

【小説版】「1000年たどる家系図の物語(仮)」-目次‐
序章 源静香と1000年の家系図
【第一部】
第一章 1000年の物語を紡ぐ旅
第二章 家系図はじめました
【第二部】
第三章 200年前 戸籍が紡ぐ軌跡
第四章 400年前 藩政資料が紡ぐ武士の人生
第五章 1000年前 -人皇第五十代帝桓武天皇四十世ノ子孫源静香-
【第三部】
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第七章 人はなぜ家系図を作るのだろう?
第八章 霧の渋民
第九章 雨の渋民
第十章 飴の渋民~泣いた赤鬼~
第十一章 虹の渋民
第十二章 伊予守源義経~夢とロマンと…
-終章- 優しくなりたい
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第六章 また家系図はじめました

-もう一人の静香-

夏休みを利用して、静香さんは父方の源家の戸籍を札幌から岩手までたどっていた。
彼女が持参した戸籍を整理しながら、僕たちは少し雑談を交わす。

「ネットで同姓同名って検索しなかった?」
「はい、しました。」

渡辺はありふれた名字だが、宗貴(むねたか)は珍しい。自分しかヒットしなかった。
「私はアニメのしずちゃんばっかり。でも、輸出販売会社の女社長さんも出てきた。」
「そんな有名な人がいるんですね。」
「うん。友達がネットの写真見て『なんか静香に似てる』って言ってた。それ聞いてちょっと気になっちゃった。」
「ええ!同姓同名で似てるなんて、どこかで繋がってるんでしょうかね。」

ただの雑談だったが、その話題がどこか頭の片隅に残った。

-源家、200年の軌跡-

「源家の戸籍、しっかり揃っていますね。」

『源家戸籍』より
本籍地:岩手県岩手郡霧然村
6代前:源 清左衛門(生没年不明)
5代前:源 次右衛門(二男、慶応元年(1865)生 )
4代前:源 要次郎(二男、明治18年(1885)生、明治40年(1907)に北海道旭川市へ移住)
3代前以降:昌之 → 安太郎 → 道哉 → 静香

-霧然村から繋がる歴史-

「遊馬野家と同じく東北でしたね。岩手県北岩手郡…霧然村?」
地名辞典を開き、江戸時代からの霧然村の歴史を確認する。

 【霧然村 きりしかりむら】 [現]玉山村字霧然
 北上川左岸に位置し、奥州街道に沿う。東と北は馬場村、南は渋民村。慶長一四年(一六〇九)一〇月七日の石亀弥三郎宛南部利直知行宛行状(盛岡下田文書)に、下田しもだ村四〇〇石の一部として「弐拾五石二斗九升三合 小あくと右京進」とあり、のちの枝村である小明戸こあくとの地名がみえる。正保国絵図に村名がみえ、高五八石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に蔵入高一三二石余とあり、七ヵ年平均の免一ツ九分一厘二毛。元禄三年(一六九〇)の岩手郡御検地名寄帳御帳写(小綿文書)に蔵入高九八石余とあり、家数十。元禄十郡郷帳による〆高は田方六三石余・畑方五六石余。「邦内郷村志」では蔵分一〇〇石余・給分一五石余で、家数二〇、馬二〇一。享和三年(一八〇三)の仮名付帳では家数二四、うち本村九、枝村は武道ぶどう一〇・荷坪につぼ二・小明戸三。「管轄地誌」では田一〇町一反余・畑八五町一反余、宅地・荒地計一〇三町七反余、家数二五・人数百三十、牛二四・馬九三、人力車一、上芋田に一里塚がある。
「雑書」慶安二年(一六四九)一〇月二四日条によれば、当村などへ「追鳥奉行」を派遣とある。文政一三年(一八三〇)渋民・霧然両村のほか五ヵ村から人馬を出して渋民町の道普請をすることになり、当村から五八疋の馬を出している(「諸用書留帳」県立図書館蔵)。天保九年(一八三八)の霧然村議定(霧然文書)によれば、田畑を荒した者は「重立親類ニ而其者壱人ニ不限家内中不残〆殺、川江引入可申候」等と取決めている。字武道に妙光(みようこう)寺があり、一乗山と号し、日蓮宗。昭和二二年(一九四七)盛岡市遠光おんこう寺三世の開山。新塚しんつか一里塚は県指定史跡。

続けて、主要なポイントを箇条書きで整理した。

・奥州街道沿いの農村地帯で交通の要所。
・江戸時代を通じて家数が10戸から25戸に増加。
・農業とともに、牛24頭・馬93頭を飼育する畜産も行われていた。
・村内には日蓮宗の妙光寺があり、宗教的な役割を担っていた。

典型的な農村地。
かつての同族、本家や菩提寺を探すスタンダードな調査だ。

-江戸時代の農民の物語-

「この村、どんどん大きくなっていったんだね。」
静香さんが資料を指しながら感心したように言う。

「そうですね。最初は10戸ほどの小さな集落だったのが、数百年かけて成長したようです。それに『牛二四・馬九三』という記述も興味深いですね。」

「馬が93頭も?普通そんなにいるもの?」
静香さんが驚いた声を上げる。

「農作業や運搬以外にも、何か特別な役割があったのかもしれませんね。」

「それと、この『妙光寺』って先祖の菩提寺なのかな?」
「その可能性はありますが、『東と北は馬場村、南は渋民村』とありますね。確定するには周辺の寺院も含めて調べる必要がありそうです。」

-謎の霧然村Ⅰ-

二つの奇妙な記述が目に留まった。

『慶安二年(一六四九)…追鳥奉行を派遣』
『田畑を荒した者は重立親類ニ而其者壱人ニ不限家内中不残〆殺、川江引入可申候』
「『追鳥奉行』って何だろう?」
静香さんが首をかしげる。

「鳥に関係した役職だと思いますが、詳しいことはわかりませんね。」

静香さんがさらに資料を指さす。
「それに、この『田畑を荒した者…』って、何か怖い感じがするね。」

「確かに異質ですね。この村に独特の規律や慣習があったのかもしれません。」

「篁先生に相談したら、何かわかるかな?」

静香さんは少し考え込むようにしながら、ふっと笑顔を浮かべた。
「でもさ、こういうわからないことを調べるのが一番面白いね!」

「そうですね。一つずつ紐解いていきましょう。」
静香さんの純粋な好奇心に触発され、僕もまた調査への意欲が湧いてきた。

けれど、資料の内容にほんのわずかな違和感を覚える。これが本当に典型的な農村地の記録…なのか?

-基本的な調査① 現在地と同姓の数を把握-

「岩手県岩手郡霧然村」は、現在の「岩手県盛岡市玉山区霧然」に該当することがわかった。

「これで現代の地図とつながりますね。次は同じ苗字の方がどれくらいいるか確認してみましょう。」

電話帳ソフトで「盛岡市玉山区霧然」を検索すると、10軒の「源」姓がヒットした。


電話帳リスト(岩手県盛岡市玉山区霧然)
源 義嗣
源 健信
源 和志
源 博司
源 要司
源 サナ
源 武
源 幸男
源 一正
源 将司

-通し字を見抜く女Ⅱ 家族の『要』となる-

「みんな親族かな?」
「珍しい苗字で、しかも地域が限定されているから、その可能性は高そうですね。」

静香さんがリストを覗き込む。
「この『要司』さんって、『要』の字が入ってるよね?私の4代前の『要次郎』さんと関係があるのかな?」

「その可能性は十分にあります。一文字を名前に継ぐ風習は昭和まで広く行われていましたから、近い親族かもしれませんね。」

-基本的な調査② 地図を確認-

「この地域の地図も確認してみましょう。」
ゼンリンのHPでダウンロードサービスを利用して地図を取り寄せた。

地図には、奥州街道(国道301号線)沿いに商業施設や民家が並び、山間部にはいくつかの集落が点在している。その上を渋民バイパス(国道4号線)が走り、地域全体はのどかな農村地帯といった雰囲気だ。

目立つ施設は、小中学校や交流センター、病院、廃棄車両処理施設程度。近隣の集落と比べて特段発展しているわけではないが、暮らしやすそうな印象を受けた。

「なんだかのどかそうだね。こういうところ、落ち着きそう。」
静香さんが地図を見ながら微笑む。
「大きなスーパーもあって便利そうですし、地域の暮らしが想像できますね。」

「地図を見るのって意外と面白いね。」
静香さんの言葉に同意しながら、地図全体を眺め直す。霧然を含め、周囲には6つの集落があり、最も大きいのは渋民で、JR渋民駅がある唯一の場所だ。

寺社も各集落ごとに点在している。その配置が、地域の歴史や生活文化の痕跡を物語っているようだった。

-謎の霧然村Ⅱ 名を継ぐ者たち-

住宅地図には各戸の名字が記載されている。霧然では電話帳で確認した通り、「源」姓が多く見られるが、周辺の集落には「源」姓がほとんど存在しない。どうやら「源」という名字は霧然特有のものらしい。

一方、霧然の周囲には『佐藤』『伊勢』『那須野』といった名字がそれぞれ数軒ずつ点在している。
…ん?『佐藤』『伊勢』『那須野』…何かが引っかかる。みぞおちにモヤッとした感覚が走るが、すぐに霧散してしまった。

静香さんが地図を指さしながら首を傾げた。「源姓って霧然にしかないのかな?」
「ええ。珍しい名字で特定の地域に集中しているのは、何か特別な由来がある可能性が高いですね。」

静香さんは納得したように頷き、再び地図に目を落とす。

–頼られる男-

僕の頭には篁先生の話が浮かぶ。源姓の発祥について、先生は次のように説明していた。
1つは、先祖の氏族である源氏を直接名乗るようになった『先祖返り説』。
もう1つは、音の似た「皆本」などの名字が「源」に転化した『転化説』だ。

静香さんがノートを広げながら言う。「どちらにしても面白いね。どんな経緯で源姓になったんだろう。」
「まだ断定はできませんが、行き詰まったら篁先生に相談しましょう。」

静香さんが微笑みながら言う。「渡辺さんって本当に篁先生を信頼しているんだね。」
「はい。」僕は素直に答えた。

突然、静香さんが話題を変える。「坊ちゃん団子って愛媛の道後温泉限定なんだってね。」
「はい…。どこから仕入れたんでしょうね?」

-基本的な調査③ 同姓へのアンケート調査-

「では、霧然に住む10軒の源家にお手紙を出しましょう。」
僕たちは丁寧な文面を作成し、古い戸籍と簡易的な家系図を添付した。


当家の先祖をご存じでしょうか。
菩提寺やお墓について何かご存じでしたらお教えください。
家紋や先祖に関する情報をご存じであれば、ご教示いただけますと幸いです。

「こんな感じで大丈夫ですね。あとは返信を待つだけです。」
静香さんは少し眉をひそめ、「返事、来るかな?」とつぶやく。

「確実ではありませんが、同姓アンケートの場合、おおよそ3割は返事がもらえるんです。」
そう説明すると、静香さんもほっとしたように、「そっか、それならちょっと期待できるね」と微笑んだ。

僕たちは手紙を封筒に入れ、一つずつ丁寧に封をした。期待を込めつつ、返信を待つことになった。

-基本的な調査④ 郷土資料調査-

「手紙の返信を待つ間に、郷土誌を調べましょう。」
静香さんが興味津々で目を輝かせる。「遊馬野家の琴似町史みたいなもの、霧然村にもあるかな?」

「はい。まず北海道立図書館で『岩手県史』や『盛岡市史』を確認してみましょう。そして霧然村周辺の村誌も探してみましょう。」

「記録、残ってるといいなぁ。」静香さんが期待を込めてつぶやく。
「ただ、記録が残っていなくても、調査したこと自体が成果です。次に進むための足がかりになりますからね。」
「なるほど、確かにそうだね。わからないままよりも、調べて安心したい!」

僕たちはそれぞれ役割を分担し、効率よく調査を進める準備を整えた。

「じゃあ私はこれから郵便局で手紙を出して、図書館にも行ってみるね。」
そう言うと、静香さんはマウンテンバイクに乗って颯爽と帰っていった。

彼女は手紙を投函し、図書館で郷土誌を確認し、夜にはビアガーデンでアルバイトをするらしい。生き生きとしていて頼もしい。

そんな静香さんの姿を見ていると、ふと5歳のフミと2歳のチヨの顔が浮かぶ。どう育ってくれてもいいけれど、こんなふうに前向きで充実した日々を楽しめる子になってほしいな…。

-謎の霧然村Ⅲ 伝説の残響…-

静香さんが帰った後、住宅地図を広げて改めて確認する。霧然には「源」姓が10軒以上点在しているが、他にも目に留まる苗字があった。「佐藤」が4軒、「伊勢」が3軒、「那須野」が2軒…。なぜか、これらの名前が頭に引っかかる。

気になったまま、以前ブックオフで購入した『学習まんが―日本人物の歴史 源義経』を手に取った。
牛若丸としての幼少期、鞍馬寺での修行、弁慶との出会い、一ノ谷の戦いや壇ノ浦の平家討伐、そして頼朝との確執…。義経の生涯が簡潔にまとめられている。

だが、僕の目を引いたのは「北行伝説」の記述だった。義経が衣川館での最期を迎えず、北へ逃れたとする説だ。蝦夷地に渡り、果てはモンゴルにまでたどり着いたという壮大な物語。

「これって、もしかして…。」
霧然村に関する手がかりがぼんやりと浮かぶ。何かが繋がりそうな予感がした。

その場で篁先生にメールを送ると、すぐに返信が返ってきた。
「いいね、今からでも話そうか。」

-謎の霧然村Ⅳ 導かれし者たち-

「先生。この村、何か特別なんでしょうか?」
僕は電話帳リストと住宅地図を篁先生に渡した。先生はしばらく無言でリストと地図を見つめ、静かに言った。
「全部、義経とその郎党の苗字だな。」

佐藤継信と佐藤忠信——一ノ谷の戦いで命を落とした兄弟で、忠義の象徴とされる武士たち。
伊勢義盛——義経の挙兵を助けた初期の側近。信頼厚き存在。
那須与一——扇の的を射抜いた平家物語の英雄で、弓の名手として知られる。

地図上に点在する苗字に目を落とすと、その背後に義経とその仲間たちの物語が浮かび上がるようだった。

「先生、以前東北には源姓がいないっておっしゃってましたけど、この村だけに存在するのはどうしてなんでしょう?」
「興味深いな。」先生の表情がさらに真剣になった。

-つわものどもが夢のあと-

「全国各地に平家の落人伝説ってありますよね。」
「ああ、よくある話だ。平家の落ち武者が逃げ延びて村を作ったというものだな。たとえば、四国の山奥に赤旗が残されていて、紅白歌合戦や運動会の赤組・白組の由来がそこにあるという説もある。」
「じゃあ、源氏の落ち武者伝説もあるんですか?」
「それは少ないな。源氏は勝者だったから、落ち武者にはならない。保元の乱や平治の乱で一時隠れた者たちも、後に頼朝の挙兵に加わって幕府の樹立を助けている。」

源氏が勝者であるから伝説が少ないという篁先生の説明に納得しつつ、さらに質問を投げかけた。
「でも義経の伝説は別ですよね?」
「そうだ。義経は源氏の中でも特別な存在だ。彼は敗北しただけでなく、頼朝に追われる身となった。そのため、逃亡先やその最期に関する伝説が数多く残っている。」

-伝説と現実の交差点-

「たとえば、ジンギスカンになった説もありますよね。」
「有名な話だな。ただ、そこまで行かなくても、北海道に渡った可能性は十分にある。蝦夷地に逃げ延びたという伝説は数多く残っているし、アイヌとの交流があったとしても不思議ではない。」
「アイヌの神になった、という説も聞いたことがあります。」
「それはさすがに誇張だろうが、義経が何らかの指導的立場に立った可能性はあるかもしれない。もし北海道に渡ったのなら、アイヌ民族との接触は避けられないだろう。」

篁先生の話を聞きながら、霧然村の苗字や源姓の存在が、義経とその仲間たちの伝説と結びついていくような気がした。
「霧然村の源姓が特定の地域に集中していることや、周辺の苗字が義経の郎党と関連があることを考えると、この村は何か特別な由来を持っているのかもしれない。」
伝説と現実の線が、どこかで交差する瞬間が来る気がしてならなかった。

-消息不明の牛若丸と千歳丸-

「義経の子孫っているんですか?」
「史実ではいないとされているが、『吾妻鏡』には千歳丸という子供の記載がある。ただ、この子の消息は不明だ。」
「千歳丸…本当に存在したんですか?」
「おそらくな。『吾妻鏡』は鎌倉幕府の公式記録で、信憑性は高い。ただ、仮に子孫がいたとしても、その後、歴史の表舞台から姿を消した可能性が高い。」
「でも、この村は義経のゆかりとも関係がなさそうです。典型的な農村地帯に見えますが…。」
僕はコピーした地名辞典の資料を篁先生に渡した。先生は資料を黙読しながら、次第にその表情を硬くしていった。
「先生、どうかしましたか?」

-殺気Ⅰ 霧然に潜む爪痕-

沈黙は、ただの考えごとというには少し長い気がした。
「先生?」
「…いや、ちょっと気になるところがあってな。」
篁先生は資料の一部を指さした。
『慶安二年(一六四九)に盛岡藩から追鳥奉行(おいとりぶぎょう)を派遣』

「追鳥奉行…」気になっていた記述だ。
「江戸時代に珍しい鳥を捕らえるために派遣された武士だ。鳥を飼うのが当時のブームで、藩主への献上のために活動していたんだ。」

先生の声は少し硬い。これまで聞いたことのない、どこかぎこちない響きがあった。
「じゃあ、霧然村に派遣されたのも、そのため…ですか?」
「おそらくな。盛岡藩主の趣味だったのか、それとも幕府への献上品として必要だったのか…。…そして『田畑を荒した者は…』」

篁先生の言葉がふと途切れる。一瞬、目が資料から離れ、どこか遠くを見つめるような表情だった。

-殺気Ⅱ 霧然に漂う甘露-

「先生?」
「…いや、なんでもない。ただ、追鳥奉行が派遣されたというのは珍しい記録だ。後で詳しく調べる必要がありそうだな。」
淡々と話を戻しながらも、なぜか、それ以上深く語ろうとはしない。
篁先生はすぐに表情を整え、地図に視線を落とした。
「まずは同姓アンケートと郷土誌の調査結果が楽しみだな。」
そう言いながら、篁先生が冷蔵庫から白い陶器瓶を取り出した。
「ち少し休憩しようか。このカルピス、戦前の陶器瓶入りのものなんだ。」
瓶はしっかりとした作りで、表面には「CALPIS」と英字で記されている。
その姿がどこか品のある風格を漂わせていた。が…戦前って…。

-先祖が見た夢-

注がれたカルピスは濃厚で、懐かしいような新しいような、不思議な味わいがした。
「昔の人もこれを飲みながら、どんな未来を夢見ていたのかね。」
篁先生がぽつりとつぶやく。その言葉に、少しだけ遠い時代と繋がったような感覚を覚えた。

少し間を置いて、先生が資料の一箇所を指さす。
「ところで、渡辺君。郷土誌を探す際に『渋民(しぶたみ)』ってキーワードも重要になる。」
「地名辞典に『東と北は馬場村、南は渋民村』とありましたね。」
「その通りだ。この渋民が、この辺りを調べる上で避けて通れない場所なんだ。」

霧然村の近隣で最も大きい集落、それが渋民だった。
唯一の駅であるJR渋民駅を中心に、村全体の要所として機能しているようだ。

-啄木の里-

「実はこの渋民が面白いんだ。」
篁先生が生き生きとした声で言った。
「(?)」

「渋民は石川啄木の育った場所だ。正確には近隣の村で生まれてから渋民に移り住んだんだが、彼の重要な足跡がここに残っている。」
「あの詩人の啄木ですね。」
「そうだ。彼の父親は住職で、渋民の宝徳寺という曹洞宗の寺に転任してきた。もしかすると、この宝徳寺が源家の菩提寺である可能性もある。」

篁先生の知識に驚くばかりだった。家系図や苗字だけでなく、地域の歴史や著名人にまで精通しているとは。
「曹洞宗のお寺は過去帳が比較的しっかり残されていることが多い。もし宝徳寺が菩提寺なら、そこから重要な情報が得られるかもしれない。」

-同級生は啄木-

篁先生はさらに話を続ける。
「啄木は渋民尋常小学校に入学している。明治19年(1886)頃の生まれだから、明治18年(1885)生まれの要次郎氏と同じ頃だ。静香さんの4代前にあたる要次郎氏だが、同級生だった可能性もあるな。」

「本当ですか!」
思わず声を上げる僕。静香さんの4代前の祖先が、啄木と同じ学校に通っていたかもしれないなんて、驚きだった。

「啄木は学齢より早く入学しているから、同じ教室で机を並べていた可能性が高い。」

啄木と要次郎氏――2人が同じ校舎で学び、子ども時代を共に過ごしたのだとしたら、その時代背景や村の風景が一層鮮やかに感じられる。篁先生の話は、過去を現実のものとして感じさせる力がある。単なる記録ではない、生きた物語を感じさせるのだ。

-教師啄木物語-

「それだけじゃない。啄木は20歳くらいの頃、一度渋民に戻っているんだ。尋常小学校で代用教員をしていた時期がある。」

「ということは、源家の誰かが啄木の授業を受けたかもしれない…?」
僕の問いに篁先生は軽く頷いた。

「可能性は十分あるな。村の規模を考えれば、ほとんどの住民が顔見知りだっただろう。」

啄木が代用教員として教壇に立ち、未来を語る子どもたちに向き合った姿を想像すると、源家と啄木の接点がより身近に感じられる。この村の中で交差した啄木と源家の物語は、過去の歴史を探る手がかりとして興味深いものになりそうだった。

-夢とロマンと-

話はさらに広がる。
「啄木はその後、函館に渡っている。要次郎氏も明治40年(1907)に北海道旭川へ移住しているから、どこかで再会していた可能性もあるな。」
「北の大地での再会ですか。夢とロマンがありますね。」
「北に渡った者同士、何かしらの繋がりがあったかもしれないな。」

篁先生の説明を聞きながら、渋民と源家、そして啄木との不思議な縁に胸が高鳴った。
「渋民尋常小学校は今、渋民にある石川啄木記念館の敷地内で公開されている。当時の写真や学級名簿が展示されているらしいぞ。もしかしたら源家の名前が載っているかもしれない。」
「そんな調査方法があるんですね!」

その可能性にワクワクしながら、僕は篁先生の話に引き込まれていった。
家系調査には深い知識とともに、想像力が必要だと実感する。

-現実と-

さっき霧然村の地名辞典を見たときの一瞬だけど深い沈黙が嘘みたいだ。篁先生はいつもの軽快な調子を取り戻していた。
そうだ、この人は家系の話をすれば、たとえ戦前のカルピスでも酔っぱらえる人だ。

「そうだ。啄木は偉大な詩人なのは間違いないんだが、ちょっとだらしないところもあったらしい。借金王だったようだ。」
「はい?」
「記念館には、彼の残した借金の証文が結構展示されているんだ。もしかすると、要次郎氏の名前があったりしてな。」

篁先生が軽く笑いながら言うと、僕もつられて笑みを浮かべた。
「啄木は『働けど働けど』と嘆いていたけれど、もしカルピスの甘さを知っていたら、少しは心の余裕もできただろうな。」

篁先生の話に夢とロマンが現実味を帯び、啄木の詩の世界が急に身近になる。
「そういう一面も知ると、ますます親しみを感じますね。」

啄木の詩の世界と現実の生活の間を行き来する話は、どこか人間味があふれていて、いつの間にか僕もどんどん引き込まれていく。

所蔵先Ⅰ 日記が語る村の記憶

「啄木は『渋民日記』を残している。この日記には、当時の村の様子が詳しく書かれている。筑摩書房の啄木全集第21巻に収録されている。この文献は札幌中央図書館にも所蔵があるから、ぜひ調べてみたらいい。」
「全集の巻数まで覚えてらっしゃるんですか…!」

驚きながらも感心せずにはいられない。篁先生の知識の深さには毎回驚かされる。

啄木と源家、渋民の繋がりが新たな可能性を示唆する中、調査の範囲がどんどん広がっていく感覚がした。

-唯一の黒星-

「ところで、渡辺君。この渋民という地名にもう一つ覚えはないかい?」
「えっ、渋民…ですか?」

「君、こないだ貸しただろう。『ドカベン』全巻。」
「ああ、そういえば!」

「その中の弁慶高校だよ!」

ん?弁慶高校。身軽で俊足、速球ピッチャー義経光(よしつねひかり)。豪打で強肩、剛腕ライト武蔵坊数馬(むさしぼうかずま)。山田太郎の明訓高校に唯一黒星をつけた強豪校。
「ああ、そうですね。弁慶高校は岩手県代表でしたね。渋民でしたっけ?」

-所蔵先Ⅱ 漫画が描く地名の記憶-

篁先生は満足そうに頷く。
「そうさ。漫画の中では、弁慶高校の選手が試合後に『これから渋民に帰る』と言っているシーンがある。作者の水島新司が岩手をモデルにした地名を採用したんだよ。」

地名が現実とフィクションの中で繋がり、渋民という場所が少し特別なものに感じられる。まるで漫画と現実が交差する点を見つけたような、不思議な感覚だった。

「この描写が収録されているのが、秋田書店の『ドカベン』第29巻第1話だ。この文献は現在君の家にも所蔵があるから、ぜひ調べてみたらいい。」

漫画と歴史、そして家系調査が繋がりを見せる。篁先生の話は、いつも僕の視点を広げてくれるのだ。