戦国時代から中世・古代まで…戸籍のない時代の先祖を遡る方法
※本連載は、家系図作成代行センター株式会社代表・渡辺宗貴氏の著書『わたしの家系図物語(ヒストリエ) 』(時事通信社)から一部を抜粋し、物語形式で具体的な家系図の作り方を見ていきます。今回は、「戸籍」が作成されなかった時代に生きた先祖の遡り方について見ていきます。
ほとんど苗字は40代遡ると4つの「氏」にたどり着く
<登場人物>
葛西 美々(かさい みみ)
戸籍を見て先祖に興味を持ち、家系図作りに取り組む高校3年生。素直で真面目な性格。
筧 探(かけい さぐる)
「家系図作成講座」の講師。年齢不詳で、ひょうひょうとした雰囲気。
※本連載では、家系調査をするという目的上、差別的意味合いを含む可能性のある語句を差別的意図ではなく、歴史的用語として用いています。
※高校生葛西美々の前回の物語は、第1回目(関連記事:『4つの時代ごとに先祖のたどり方が異なる!「家系調査」の基本』)をご覧ください。
講座再開。40代さかのぼると、多くは「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」にたどり着く…どうやって調べるんだろう。筧(かけい)先生は、説明する。
「中世・古代は、その時代に生きた人の家系が『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』や『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』といった文献にまとめられています。我々のご先祖様は、さかのぼっていくといずれ、この記録のいずれかの家系につながるといわれています」
「誰でもそんなにさかのぼれば、天皇とかにつながる※1んですか?」
という質問が飛ぶ。
※1 詳しくは、後述のコラム「意外に多い、名家の子孫」を参照。
「いいえ。もちろん必ずというわけでは、ございません」
予想していたように筧先生。きっと予想していたんだろう。
「まずは、苗字(みょうじ)について少し知識を深めましょう。現在、日本には少なく数えても10万、多ければ30万の苗字があります。では、この苗字はどのように生まれたのでしょうか?」
筧先生がホワイトボードに板書を始める。
↓
数ある「氏」の中で、「源平藤橘」の四つが有力だった。
↓
人口が増え、「氏」だけでは足りなくなる。
↓
平安時代(1185~1192年)末期に、支配地や居住地(地名)を名乗る「苗字」(正確には名字)が登場。
「苗字の研究は奥が深いので、専門的にすぎないようご説明します」
参加者名簿と教室を交互に見ながら、
「ええと…葛西(かさい)さん」
!? はい?
「はい」
「ちょっと例にさせていただいていいでしょうか?」
「はい…ええ、いいです。お願いします」
「では、『葛西』という苗字です。『姓氏家系大辞典』(角川書店)という苗字辞典によると、この苗字は、下総(しもうさ)国葛西郡葛西(かさい)の御厨(みくりや)という地名から発祥しています」
「葛西」なんていう地名があるんだ…全然知らなかった。下総国葛西郡葛西御厨ってどこなんだろう?
「葛西御厨は、現在の東京都葛飾区付近です。葛飾の西にあるので、『葛西』といいます。『葛西』という苗字は、この地に桓武(かんむ)天皇(737~806)の子孫である清重(きよしげ)が住み着き、葛西三郎(さぶろう)と名乗ったことに始まります」
専門的な話になってきたが、聞きなれない言葉に戸惑わせないように、ゆっくりだが流れるような説明。なんとかついていける。
桓武天皇は、日本の第50代天皇。首都を平安京(京都)に移した。その子孫は、平安京の「平」にちなんで「平氏」という氏を名乗った。その子孫の中の1人、平安時代(794~1185)の末期から鎌倉時代(1185~1333)の前期にかけて活躍した武将である清重が「葛西」という苗字を名乗り始めた、ということね。
「我々の家系をさかのぼるには、現在から1代ずつさかのぼらなければなりません。ですが、中世・古代といった古い時代に入ると、すでに文献にまとめられているどの家系につながるかを探す作業になります」
1000年以上前の桓武天皇から始まる葛西姓の家系の流れは、おおよそ600年前(1400年代)までの記録が、中世・古代の系図文献にまとめられているという。美々(みみ)の先祖が、どういう経緯をたどって、葛西三郎なり桓武天皇なりにつながるのかわからないが、超面白いなと思った。
「ただ、家系調査には限界点もあります。先ほど飛ばした戦国時代は、非常に記録が少ないからです」
公的資料の少ない戦国時代は家計調査の限界点の一つ
話を飛ばしていた、戦国時代の調査についていよいよ説明するようだ。「過去帳」や「武士の系図」で、江戸時代初期の400年前までさかのぼれたとする。また、中世・古代の家系の流れが、1000年以上前から600年前まで下ってこられたとする。
「ちょうどこの間、400年前から600年前までの期間が、戦国時代に当たります」
戦国時代は資料が少なく、この間の空白を先祖が1代の漏もれもなく完全に埋められる家は少ないという。また、戦国時代は、人の移動が自由だった時代でもあった。好きな地に住み、好きな殿様に仕えた時代なのだ。
「人の移動が自由だった時代のどの家系に自分の家がつながるのか、特定するのは困難です。ここが、家系調査の一つの限界点です。しかし、間に何代か、数十年か数百年かの空白ができるかもしれませんが、1000年前からの大きな家系の流れは、把握できる可能性が結構あります」
この空白の期間を埋めるには、さかのぼっていった家系と、下ってきた家系がつながっているという根拠を探すという。
「家紋(かもん)で一致させるか、地域で推測するか、その他文献・文書で根拠を探します」
ほほう! という感心と、本当に1000年前とつながるんだろうか?※2という疑問が浮かぶ。
※2 詳しくは、後述のコラム「意外に多い、名家の子孫」を参照。
実際に質問も飛ぶ。
「はい。江戸時代以前は、現在の戸籍のような公的な資料は残っていません。ですので、戸籍以前の家系調査というのは、誰もその内容を保証してくれません。また、言い換えれば、血のつながりを証明した家系図というよりも、精神的な家系図という意味合いともいえます」
そうなんだ。
「しかし、公的資料ではありませんが、『過去帳』や『武士の系図』は、おおよそ信頼できる資料といっていいでしょう。また、中世・古代の系図の記録も、完全ではありませんが、おおよそ正しいといわれています」
いずれにせよ、まずは戸籍で江戸末期までさかのぼることと、自分の苗字の発祥を知ることが必要だという。
「苗字を知るために、まず見るべきは、『姓氏家系大辞典』です。この本は、大きな図書館であれば、たいていは所蔵されています。この区民センター併設の図書館にもあります。お帰りの際に、ご自分の苗字の項目をコピーしていってはいかがでしょう」
美々の他に幾人かの苗字を例に話し、第1回、90分の講座はあっという間に終わった。
「まずは、戸籍を取ってみましょう。次回は1ヵ月後です」
次回も来る受講者たちは、それまでに一番古い戸籍まで取得しておき、次の段階に進むそうだ。また、何か家系についての聞き伝えがないか、家族や親族にできる限り聞いておくといい、とのこと。
Q1 家紋を知っているか?
Q2 ご先祖様が江戸時代に住んでいた場所を知っているか?
Q3 ご先祖様が住んでいた地の同姓の人と、お付き合いはあるか?
Q4 ご先祖様のお墓やお寺を知っているか?
Q5 ご自宅の仏壇(ぶつだん)などに、「過去帳」はあるか?
Q6 聞き伝えはあるか?(武士・農家等、あるいは源平藤橘など、ルーツに関するもの)
ちなみに、講師の「筧探(かけい さぐる)」というのは、本名ではなくペンネーム。本名は、篁公太郎(たかむら こうたろう)。50歳。年齢不詳な感じではあったけど、予想以上に年齢が高かった。
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素直な美々は、言われた通り、『姓氏家系大辞典』を見に、図書館に寄ってみた。普段は目にも入らない歴史関連コーナーには、同じように考えたであろう受講者たちが、幾人か見える。郵送での戸籍の請求の準備をしながら、少し時間をつぶし、誰もいなくなったところで『姓氏家系大辞典』を見る。漢文調? というのかよくわからないが、昔の書き方っぽく読みづらい。とにかく、言われた通り、「葛西」の項目のコピーを取ろう。
「やあ。葛西君。さっそく、調査をしているんだね」
コピーに集中していた美々は、ビクッと小動物のように振り向いた。
「なかなか意味がわかりづらいだろう。6分30秒ほど待っていてくれるか」
筧先生は、ガラス張りの閲覧室に入り、何かを猛烈にメモして、6分25秒で戻ってきた。
「『姓氏家系大辞典』の「葛西」の項目の解説だよ。じゃあ、気をつけて」
筧先生は、風のように来て、風のように去っていった。美々の手元に、メモだけを残して。筧先生のメモは、急いで書いたはずなのに、読みやすい字が並ぶ。
……。
美々のために、『姓氏家系大辞典』の読み方のコツを書いてくれたようだ。美々は、『次回も、講座に来てみようかな』と、思った。
意外に多い、名家の子孫
歴史人口学から見て、現代人のルーツをさかのぼると、大半が古代・中世の名族に結びつくといわれています。特に多くの苗字を生み出した古代名族は、「日本人の四大姓」といわれました。「源氏」「平家」「藤原氏」「橘氏」の4つの姓です。この四姓からは、実に数多くの苗字が生まれました。
家系を1代さかのぼると2人の親があり、2代で4人、3代で8人と倍々に増えていき、10代では1024人、20代では100万人を超えます。20代前はおおよそ1500年ごろになり、当時の日本の人口は約600万人といわれていました(※諸説あり)から、計算上は1500年ごろに生きていた人のうち、6人に1人が我々の先祖ということになるのです。
また逆に、古代から現代に向かって歴史を下ってみると、経済力や武力を持っていた名家ほど子孫を残しやすく、そうではない家は長い歴史の間に子孫が絶え、滅び去り、淘とう汰たされてしまったことがわかります。
すなわち、中世に生きていた人々の多くは古代・中世名族の子孫であり、そのうち6人に1人を祖先に持つ我々も名族の子孫である可能性がきわめて高い、ということになります。