本と漫画De家系図 目次
書籍「わたしの家系図物語(ヒストリエ)」原文 公開
「わたしの家系図物語(ヒストリエ)」【目次】
- プロローグ 初めて見る戸籍
- 第一講 1000年さかのぼる家系調査
- 第二講 戸籍以上のことを知るには…──土地と苗字の基礎資料集め
- 第三講 先祖はどんな生活をしていた?──本格調査1「文献からの情報収集」
- 第四講 お墓や菩提寺、家紋を調べよう──本格調査2「人からの情報収集」
- 第五講 世界に一つしかない『自家の歴史書』──家系調査をまとめると、家宝になる
- プロローグ 先祖が住んでいた地へ
第二講 戸籍以上のことを知るには…──土地と苗字の基礎資料集め
※(物語パート)全文公開
できるだけ古い戸籍を取得してくること── これが、前回の講義の宿題であった。
江戸時代の先祖の戸籍を前に、美々は少し 感動していた。
天保 ・弘化・安政 ……聞きなれない年号。 江戸時代の先祖だ。
戸主は「葛西○之介」 …… なんて読むのだろう?
その隣は「ふ ゆ」? 「○八郎」? 「ふみ」?
前回の講義後、清岡区役所の職員さんのア ドバイスと、筧先生のレジュメを頼りに、釧路市役所に戸籍を請求した。
すると、「2代前 葛西啓治 」……こないだ 死んだおじいちゃんが阿寒(釧路市阿寒町)で生 まれていることがわかった。
阿寒町に戸籍を請求すると、阿寒で生まれ、その後いくつか転籍し、結 婚・出産を経て釧路市へ。そしてついこないだ 86 歳で死亡、という祖父・啓 治の戸籍上の軌跡がすべてわかった。
そもそも父・啓介から頼まれたのが、相続手続きのために、祖父・啓治が 生まれてから死ぬまでの戸籍を取得することなので、ここで任務は終了。
だが、さらに古い戸籍を追ってみた。
「2代前 葛西啓治」の前は、「3代前 葛西丑蔵」。美々の、ひいおじいちゃんだ。読み方がわからないので父に聞くと、「うしぞう」だと教えてくれ た。
丑蔵の戸籍には、丑蔵の子どもとして、祖父・啓治とその兄弟姉妹が載っ ていた。系図に書き起こす。
さらにたどると、「4代前 葛西綱次郎」が「3代前 葛西丑蔵」を連れて、 大正7年に青森県南津軽郡飯柳村というところから、北海道阿寒村字別に転籍してきたことがわかった。
大正7年は1918年。私の家は100年前に、青森から北海道に来たの か……。
父に聞いてみると、「先祖が東北とは聞いてたけど、詳しくは知らない」と のこと。
家系に関する聞き伝えも聞いてみたが、「家紋も何も全くわからな い」とのこと。
ただ、「家老だとかなんとか言ってた気がする」とのこと。
だが、「家老」というのは殿様に次ぐナンバー2らしく、「家がそんなに偉 いわけないから、どうせ嘘だと思うけどな」と笑っていた。そもそも「自分 の家系に興味がない」とのこと。
まぁ、それはわかってたんだけどさ……なんとなく。とうちゃんは、じい ちゃんをあまり好きじゃなかったんだもんな……。
綱次郎や丑蔵の兄弟姉妹を系図に書き足した。
父の関心は得られなくとも、釧路市や阿寒町の役所に請求した要領で、青 森県の板田町役場にさらに古い戸籍を請求してみた。
「4代前 葛西綱次郎」の父は「5代前 葛西○八郎」。○はなんていう字だ ろう?
ここまでは自力で系図に書き起こしてきたが、筆書きで読み取れない字も 出てくるし、親子だけでなく、そのとき一緒に住んでいたであろう家族がす べて記載されていて、何がなんだかわからなくなってきた。
「5代前 葛西○八郎」の父が「6代前 葛西〇之助」。
「6代前 葛西〇之 助」の前も同じ名前に見えるので、7代前も「〇之助」なのかな。
この戸籍を発行してくれた青森県の板田町役場によると、これ以上古い戸 籍はないという。戸籍ではここが限界点のようだ。
戸籍でわかる一番古い人名が、「7代前 葛西〇之助」。
「6代前 葛西〇之 助」が生まれた天保7(1836)年は、180年ほど前。
ということは、「7代前 葛西〇之助」は200年ほど前の先祖だ!
「7代前とはすごいねぇ」
第二回家系図講座の開始前、美々はちやほやされていた。小さいころから 生真面目で素直な美々は、男女問わず大人にかわいがられる。
美々には読めなかった「葛西○八郎」と「葛西〇之助」は、『くずし字用例 辞典』を持ってきていた年配の受講生から教えてもらえた。
それぞれ「権」「松」の旧字らしい。
直系先祖を抜き書きしてみた。
- 7代前 葛西松之助 生年不明(200年ほど前?)
- 6代前 葛西松之助 天保7年 生まれ
- 5代前 葛西権八郎 弘化4年 生まれ
- 4代前 葛西綱次郎 明治9年 生まれ
- 3代前 葛西丑蔵 明治 34 年 生まれ
- 2代前 葛西啓治 昭和7年 生まれ
- 1代前 葛西啓介 昭和 38 年 生まれ
- 本人 葛西美々 平成 12 年 生まれ
今回も 30 人近く来ているが、美々のように一番古い戸籍まで取得してきた のは数名のようだ。
戸籍の請求は決して難しくはないが、結構、手間暇がか かる。途中で挫 ざ 折 せつ した人もいれば、まだ時間がかかっている人もいる。
取得組で古い戸籍を見せ合う。微妙に引っ込み思案の美々は、同年代の輪 に入るには時間がかかるが、ご年配の輪には自然に溶け込める。
一番古い戸籍までとってきた人は、3~5代さかのぼれているようだ。 美々の7代が最高記録だが、それはそうかもしれない。彼らの大半から見る と、美々は2代下の孫のようなもの。さかのぼる代数で競うなら、最初から 有利なのだ。
!? ……美々はふと思った。
今回戸籍で判明した先祖は、7代前。だけど、いつかもし私に子どもがで きたら、その子から見たら8代前なのか。
今回取った戸籍は、大事に保管し ておこう。
筧先生が颯爽と入ってきた。みんな席に着く。
「一番古い戸籍まで取ってきてくれた人が、何人かいるようですね」
はつらつと話す。筧先生は、家系が大好きのようだ。
まずは、戸籍を取ってきた人たちに、 戸籍を系図に書き起こす作業を個別にアドバイスしてくれる。
筧先生のアドバイスをもとに、なんとか系図に書き起こせた。
筧先生のアドバイス
- ① 松之助
戸籍は必ず戸主を中心に見ます。この戸籍の戸主は、「葛西松之助」。 右に「亡父松之助長男」とあります。戸主松之助の父も松之助でした。 また、右の前戸主欄にも「前戸主亡父葛西松之助」とあります。戸主・松之助の父が前戸主だった ようです。 「亡父」とあるのは、この戸籍ができたときに、戸主・松之助の父はすでに死んでいたということ です。おそらく戸主・松之助は、前戸主である父・松之助が死んで家督を相続し戸主になったと思わ れます。 戸主・松之助の左の欄には、「天保七年一月十日生」、上の欄には「明治三十年一月十四日死亡」と あります。1836年に生まれ、1897年に死んでいます。当時としてはわりと長寿だったようで す。
- ②ふゆ
「妻」というのは、戸主から見ての妻ですので、「ふゆ」は戸主松之助の妻です。 「本縣北津軽郡菖蒲川村 千葉長左衛門四女入籍す」とあります。「本縣」とは戸主の本籍と同じく 青森県のことです。
- ③権八郎
「権八郎」は、戸主・松之助の長男と書かれています。「本縣本郡横沢村 太田東藏三男入籍す」とありますので、横沢村の太田家から葛西家に養子に入っ たようです。本来であれば、「長男」ではなく「養子」と書かれるべきところですが、古い戸籍には このような誤りがよくあります。「明治二十八年十月七日願済廃 はい 嫡 ちゃく 」「明治二十八年十月十日本村大字飯田五十五番戸へ分家す」とあ ります。「廃嫡」とは、戸主の権限で家督相続権を奪うことです。このとき 48 歳だった権八郎は、な んらかの理由で養父の葛西松之助から家督を譲らないと宣告されたわけです。その三日後、権八郎は 妻子を連れて分家しました。壮年の婿養子を廃嫡にするには、何か理由があったのかもしれません。
- ④ふみ
戸主・松之助の長女「ふみ」です。 右に「長男(実は養子)権八郎妻」とあります。ここから「権八郎」は養子でもあり、養父松之助 の長女「ふみ」の夫でもあり、つまりは「婿養子」だったことがわかります。 「同上夫権八郎に従ひ分家す」とあります。「同上」とは、「権八郎」の欄の「明治二十八年十月十日 本村大字飯田五十五番戸へ分家す」にかかっています。
- ⑤みの
戸主松之助の三女「みの」です。「明治二十六年四月二十四日本縣本郡本村大字横沢 三浦弥五兵衛二男重助妻に嫁す」とあり、三浦 家に嫁いでいます。 長女「ふみ」と三女「みの」の間に二女がいたはずですが、戸籍にいません。この戸籍ができたの が、明治 19 (1886)年前後です。そのときに、二女はすでに籍から抜けていたためです。籍から 抜けた理由としては、「婚姻」「養子縁組」「死亡」「分家」が考えられますが、残念ながらこの戸籍か らは知ることはできません。 しかし、ある程度の推測は可能です。長女が安政3(1856)年、三女が明治2(1869)年 に生まれているということは、二女はこの戸籍ができた明治 19 年前後には 18 ~ 29 歳の間です。女戸主 として「分家」の可能性は低いです。「養子縁組」で養女に出される可能性や、若くして「死亡」も あり得ますが、戸主が長寿であること、他に早世した人物が見当たらないことから、「婚姻」の可能 性が高いかもしれません。
- ⑥市郎
戸主・松之助の二男「市郎」です。長男・権八郎は養子なので、実際には長男です。「明治三十年二月二十二日死亡跡相続す」とあります。廃嫡された養兄・権八郎に代わり、戸主・松 之助の後を継いで 23 歳で家督相続をしたようです。権八郎が廃嫡された可能性の一つが少し見えてき ました。 葛西権八郎が婿養子になった年月日が書かれていませんが、これは権八郎が明治5(1872)年 以前に婿養子になったためです。取得できる最古戸籍である明治 19 年式戸籍は、日本最古の戸籍であ る明治5年作成の戸籍(壬申戸籍)の記載内容を引き継いでいます。明治5年以降の婿養子縁組であ れば明治5年作成の戸籍に記載され、その内容が明治 19 年式戸籍に引きつがれたはずです(もちろん なんらかの記載漏れはあり得ます)。「市郎」が生まれたのが明治7年。すなわち、戸主松之助が跡取りとして権八郎を婿養子に迎えた後 に、「市郎」が生まれたのです。もしかすると、婿養子より実の子に跡を継がせたいと考えたのかも しれません。
- ⑦常吉
戸主・松之助の孫「常吉」です。 右に「前権八郎長男」とあります。「前」とは前の欄の意味と思われますが、通常は書かれません。 古い戸籍には、このように規定から外れた書き方をされたものが散見されます。「明治二十八年十月十日父権八郎に従ひ分家す」とあります。
- ⑧綱次郎
戸主・松之助の孫「綱次郎」です。 右に「右同父二男」とあります。「権八郎」の二男です。「同上分家す」は、「常吉」の欄の「明治二十八年十月十日父権八郎に従ひ分家す」にかかっていま す。
- ⑨みの
三浦家に嫁いで籍を抜けた戸主松之助の三女「みの」が再び出てきます。 「明治二十五年四月二十八日本村大字横沢三浦弥五兵衛二男亡重助妻離縁に付復帰と為る」「明治 二十七年七月六日 本郡藤﨑村大字葛野阿部與四郎長男銕之助後妻に嫁す」とあります。離婚し復籍 したようです。その後、阿部家に嫁いで再び籍を抜けています。
「それでは、戸籍よりもっとさかのぼった調査をするために、必ず必要な基 礎資料集めについて話します。
資料は、『土地関連』と『苗字関連』の大きく2つに分かれます」
筧先生がホワイトボードに書きながら話してくれる。
「まずは、土地関係の資料を集めること。
これによって、ご先祖様の土地の所有状況、住んでいた場所の地図、同姓 の分布、住んでいた場所の歴史的な沿革、すなわち、家数・人口・神社・寺 院・特産物などがわかり、ご先祖様の暮らしが少し見えてきます」
「土地関連」の基礎資料収集
- 旧土地台帳
- グーグルマップ
- 電話帳
- 角川地名大辞典
- 日本歴史地名大系
「次に、代表的な苗字辞典や家紋事典には、どのように書かれているかを調 べます。
また、明治時代(1868~1911)以降の代表的な人名録・商工録に、ご 先祖様の名前が記載されているかどうかを調べます」
「苗字関連」の基礎資料収集
- 姓氏家系大辞典
- 姓氏歴史人物事典
- 苗字辞典・人名事典等
- 都道府県別姓氏家紋大辞典
この二つの基礎調査が、この先の本格的な調査の土台となるという。
「少し具体的にやってみましょうか。
では、葛西さんから。 電話帳の調査を行ってみましょう」
プロジェクターにつながれたノートパソコンには、すでに電話帳ソフトが 立ち上げられている。
「同姓の分布を調べることは重要です」
苗字によっては、全国に広がる苗字、各県特有の苗字、ある県の一部に密 集している苗字、全国的に珍しい苗字などがあるという。
「『葛西』という苗字の分布を見てみましょう」
例】青森県葛西家──同姓の分布から読み取れること
全国 …約7000軒
青森県…約3000軒
「半数近くが青森県に分布していることがわかります。 なぜ、青森県にこんなにも『葛西』が多いかですが……」
葛西氏は、葛西という地に桓 かん 武む 天皇の子孫が住み着き、葛西清重を名乗ったことに始まった。
ここまでは、前回の講座で聞いた話。次は、その苗字の始祖・葛西清重に ついて調べる。参考文献も、前回に引き続き『姓氏家系大辞典』。
「葛西清重は、鎌倉幕府を開いた源 みなもとの 頼朝の家臣となり、1189(文治5)年 の奥州征伐に従軍しました。奥州征伐とは、鎌倉政権が東北地方で勢力を 誇った藤原氏を征伐するまでの一連の戦いです。
清重は、その征伐で大いに活躍し、現在の岩手県南部から宮城県北部に及 ぶ広大な土地を恩賞として与えられました」
その後、葛西一族は戦国大名となり、現在の宮城県登米市迫町佐沼にあっ た佐沼城を居城として葛西晴信まで続いたが、豊臣秀吉が北条氏を征伐した 小田原の陣 に参陣しなかったため滅亡。
しかし、その間に葛西一族は北上を続け、南北朝のころには青森県にまで 広がっていた。
「そのため、現在でも青森に葛西氏が多いんです」
圧倒的な知識をバックボーンとした説明に、教室中から、ほうっ……とい う感心のため息が漏 も れる。
「そして、戸籍からわかる一番古い本籍地に、現在どれくらい同姓が住んで いるか。
葛西家の本籍地は、青森県南津軽郡飯柳村……現在の南津軽郡板 いた 田だ 町飯柳 です」
全国に約7000軒、内青森県に約3000軒いる葛西家。
南津軽郡板田 町だと143軒。
さらに絞り込むと、飯柳に 34 軒。
「それではここで、地名辞典で飯柳村の規模を見てみましょう」
筧先生が、青森県の地名辞典を開き、プロジェクターへ。重要なポイント を指し示してくれる。
- 飯柳村は、正保年間(1644~1648)から開発が始まる
- 明治初年の家数は、 71 。昭和 55 年の世帯数163・人口761。
- 農業の割合は、ほぼ水田と畑作が半分ずつ・産物は米のほかに、藍 あい 葉は ・大豆・菜種など
「中規模の典型的な農地です。正保年間……すなわち、江戸時代初期から開発が始まったようですが、明 治初期の全体の戸数で 71 軒。昭和 55 (1980)年には、163軒。
電話帳に よれば、現在、葛西家はこの地に 34 軒も密集して住んでいます。163軒の 中で 34 軒というのはかなり多いです。
長い年月をかけて分家を繰り返して勢力を伸ばさなければ、現在の同姓が これほどの数になることは考えにくい。当家のご先祖様は、飯柳村の初期の 入植者の一人で、俗に言う“草分け”だったと思われます」
私の家は、農村地に古くから住んだ家だったんだ。家老という聞き伝えは、 やっぱ違うのか。
「きっとこの地に、葛西さんとご先祖様を一にしている方たちがいますよ」
100年前に家族だった人たちが、今も青森の飯柳というところに住んで いるんだ……。
「ご先祖様のお墓も残っているかもしれません。勢力のあった家のようなの で、郷土資料などにも記録があるかもしれませんね」
先祖のお墓に、郷土資料に記録の可能性。先祖の手掛かりが見えてきて、 わくわくする。
ともかくまずは、基礎的な調査。
集めるべき資料のうち、「土地台帳」は法務局へ郵送での取り寄せが必要だ が、その他の資料はここの図書館になくとも、大きな図書館にはそろってい るそうだ。
そこまで進んだら、さらなる調査か……。
また来よう。
講座を終えた美々はさっそく、札幌中央図書館に向かった。
第二講 戸籍以上のことを知るには…──土地と苗字の基礎資料集め
※(ノウハウパート)非公開
第二講(ノウハウパート)概要
「土地関連」の基礎資料を集めよう
- 「旧土地台帳」とは
- 「旧土地台帳」に記載されていること
- 「グーグルマップ」で、地図上の本籍地を見る
- 「電話帳」で一族を探す
- 電話帳に同姓が載っていない! そんなときは…
- 地名辞典を調べてみよう
- 地名辞典を読んでみよう
- コラム 名前から武士かどうかわかる!?
- コラム 意外に多い、名家の子孫>
- コラム 江戸時代に武士であった場合の 調査方法
- コラム 江戸時代の人口統計(身分別・職業別)
- コラム 江戸時代の庶民も苗字を持っていた
「苗字関連」の基礎資料を集めよう
- 都道府県別に苗字を扱う『姓氏歴史人物事典』
- 人名事典や紳士録、地主名鑑などで、先祖の職業を調べよう
- 家紋を知るなら、『都道府県別姓氏家紋大辞典』
- コラム 日本人にはいくつ苗字がある?
- コラム 戸籍以上の調査のパターンと優先順位
第三講 先祖はどんな生活をしていた?──本格調査1「文献からの情報収集」
※(物語パート)全文公開
美々は褒められていた。
「あんた若いのに熱心だねぇ」 「そうだな。ウチの孫とは大違いだ。真面目でよい子だ」
第三回まで進んだ家系図講座。
前回教えられた、土地関連・苗字関連の基礎資料をすべてそろえて臨んだ のは、美々の他数名だった。
第一回への参加は偶然だった。第二回は、なんとなく面白くなったから だった。学生である美々が、参加しやすい土曜日開催だったのもある。
だが、この第三回目には、明確な理由がある。
そもそもは相続のために、祖父の啓 けい 治じ が生まれてから亡くなるまでの戸籍 が必要だっただけだ。この任務はすでに終了し、ご褒美に美々の大好きな、 自然食バイキングのディナーに連れていってもらっていた。
「焼肉がいい」と ぶつぶつ言いながらついてきた妹の清美み が一番食べていたのは、やや気に食 わなくも微笑ましいが、それはまあいい。
家族にはディナーから帰宅後のリビングで、自分が興味で家系をさかの ぼっていることは伝えてあった。
母の晴美はちょっと興味があるようで、食べ過ぎて動けないながらも熱心 に聞いてくれた。「自分の家系も調べようか」と言いだしている。
ただ、父の啓介に、時折気づかわし気な視線を投げるのが気になった。
その父・啓介の微妙な反応がまた気になった。
美々の7代前、啓介の6代 前までさかのぼれたことには、全く興味を示さなかったのだが、阿寒から釧路を転々とする、父・啓治(美々の祖父)や、祖父・丑蔵(美々の曽祖父)の戸 籍には興味を示しているようだった。
と、いっても関心のないふりを装いな がら、戸籍を見る目がなんとなく真剣に見えただけだが、そこは親子。美々 は何かを感じ取っていた。
ちなみに清美の目と耳は、興味のないことは見えず聞こえずの作りになっ ている。
7代前の先祖より、コンソメパンチの残りの量の方が重要らしかっ た。
いつものように、颯 爽 そう と現れた筧先生。
「はい。基礎調査資料をすべてそろえてきた方が……数名いらっしゃいます ね。
おっ! 最年少の葛西さんもですね」
美々はまた褒められた。小中高とさほど目立つ方ではない美々は、さほど 褒められ慣れていない。
早々と「また来よう」と、思った。
その前に、今日の講座の後、少し筧先生に相談できるといいのだが……。
今日は、本格的な資料集めに入るようだ。
「この講座も、残すところあと二回です。
いよいよ本格的な調査に入りますが、この先の調査は大きく二つ、『文献か らの情報収集』と『人からの情報収集』です」
すなわち、郷土誌など、地元の郷土資料の調査と、地元の同姓やお寺への アンケート調査。
今日を含めてあと二回なのか……少しさみしい気がした。
今日は、文献からの情報収集。
本格調査①「文献からの情報収集」
- 郷土誌の調査
- 図書館へのレファレンス
- その他
「家系調査を行うためには、かつてご先祖様が住んでいた土地の歴史を深く 知ることが不可欠です。
前回の講義で紹介した土地関連の基礎資料より、もっとご先祖様に迫るた めの資料を調べます。
それに欠かせないのが、『市町村史』などの郷土誌です。ご先祖様が武士や 庄屋・名主・肝煎 ・十村などの村長だった場合には、ご先祖様の名前が記載 されている可能性も十分にあります」
美々は、いつものように必死にメモを取る。年配の受講生たちは、必死にメモを取る美々を微笑ましく見ていた。
「では、その収集方法。
ポイントは二つ。『どこにどんな資料があるのか?』と『現地に行かずして 資料を集める方法』を知ることが重要です」
まず、どこにどんな資料があるのか?
先祖の記録が残されている可能性のある場所は、図書館・文書館・役所 ……など、多岐にわたる。
「地元の公民館や個人宅が所蔵のものもあるかもしれません。また、地域に よって独特の資料もあります」
例えば、宮城県では『安永の 風土記』といった、江戸時代の戸籍のような資 料が残されている。
また、徳島県では『棟附帳 』といった、江戸時代の庶民 の系図が残されている地域もあるという。
「このように、各県独特の調査方法がありますし、発見に専門知識がいる資 料もありますが、家系調査を行うにあたって必ず集めなければならない資料 の大半は、地元の大きな図書館やご先祖様が住んだ地の図書館や文書館にあ ります」
次に、現地に行かずして資料を集める方法。
「図書館や文書館を利用するにあたって非常に大事なのが、現地に行かずと も『市町村史』を取り寄せたり、文献のコピーの郵送を依頼できたりすると いうことです。
あまり知られていないのですが……」
と、前置きして教えてくれたのは、次の方法。
- 「図書館相互貸借サービス」というのがあり、全国どこの図書館の蔵書も 取り寄せて読むことができるということ。
- 「図書館レファレンス(複写サービス)」で、郵便・メール・FAXによる 問い合わせに応じてくれるということ。
「遠く離れた地の『市町村史』などが必要な場合は、この二つのサービスを 利用しましょう」
その市町村がある都道府県図書館に出向くと、県下の「市町村史」がすべ てそろっているという。
「例えば、葛西さんの場合は……青森県南津軽郡飯柳村……現在の南津軽郡 板田町飯柳でしたね」
プロジェクターにつないだノートパソコンで、図書館の「蔵書検索」。
まず、キーワードは「飯柳村」。
青森で一番大きな青森県立図書館と地元板 田町民図書館両方で、蔵書検索。
「一番小さい小字まで絞った『飯柳村史』のようなものがあればいいんです が、それはないようですね。
幅を広げて、次に『板田町』で検索。青森県立図書館の蔵書検索で、二つ引っかかる。
『板田町史 板田町教育委 員会』と『弘前藩庁日記から見た板田町の歴史 板田町文化財研究会』。
「板 田町史」は前回調べた地名辞典にも記載があった。
さらに、地元板田町民図書館には『板田町の生い立ち 板田町役場』。
「この3冊を取り寄せるといいですね」
また、札幌の大きな図書館にも、『青森県史』や『南津軽郡史』のような、
各県の代表的な郷土誌はあるという。 さっそく帰りに、図書館で取り寄せの手続きをしようと思った。
「ちょっと聞きたいことがあるんですが……」
講座の後は、筧先生はすぐに帰らず、さりげなく質問タイムを設けてくれ ている。
他の受講生たちの質問が終わるのを見計って話しかけてみた。
「ん。葛西さん。どうぞ。どうしました」
美々が講座の後に残って質問をするのは、今日が初めてだ。
「ええと、さかのぼるような話ではないんですけど……」
祖父とか曽祖父のことを調べてみたい。
「うん。家系図っていうのは、確かにさかのぼるだけじゃないと思っている。 でもどうして、そう思うんだい」
「ええと……」
思い切ってすべて話してみた。うまく話せる自信はない。順番もめちゃく ちゃだ。
でも筧先生は、口を挟まずゆっくりと聞いてくれていた。
父・啓介は、祖父・啓治を嫌っていること。それは直接聞いたわけではな いが、子どものころから感じていた。
父と祖父が話をしているところを見たことはない。なんとなく子どものこ ろの思い出や小耳に挟んだことから推測すると、若いころの祖父は、豪放磊 落を気取りながらも少しだらしない性格で、借金を作ったりなんだりかんだ りで、祖母、すなわち、父・啓介の母に相当大変な思いをさせた……ような 感じがする。啓介は苦しむ母を見て育った……のだと思う。
父・啓介も祖父・啓治も、美々や清美には優しい。祖父と祖母は離婚を考 えた時期もあったのだろうが持ちこたえ、どこにでもいるような穏やかな老 夫婦になった。それは、祖母の我慢と努力によるものである(と、啓介は思っ ているように思う)。
祖父は、つい数カ月前に死んだ。祖母の死に涙に声を詰まらせた父だが、 祖父の死にはひとかけらの感情も見せなかった。
でも、祖父や曽祖父の戸籍 を見ていた父の横顔は悲しそうだった……気がする。
「そうだ! そもそもは相続で戸籍がいるから、ここに来て先生の講座のポ スターをたまたま見たんです」
着地点を失っていた美々の話が、いきなりポトっと着地した。
なんとなく祖父や祖父の父のことをもっと知れば、父が何かを思う……よ うな気がする。
いや、別に何かを思ってもらう必要はないんだが、とにかく 何か知ることが父のためになる……ような気がする。
「そうか……。ちょっともう一度、君の戸籍を見せてくれるか」
「はい」
バインダーに閉じた戸籍を渡す。
「ご先祖様の職業はわかるかい?」
筧先生は、古い戸籍から新しい戸籍まで順にじっくり眺めながら、美々に 聞く。
「青森ではわからないです。北海道に来た4代前の綱次郎もわからないです、 3代前の丑蔵は炭鉱で働いていたみたいです。祖父の啓治は公務員です。お 父さんは自営業です」
「父」と言うべきところを、うっかり「お父さん」と言ってしまった……。
「そうか……。君の祖父・啓治氏は……安心したのかもしれないな」
安心?
「まず古い時代、青森ではきっと農家の家系だったんだろう」
前回集めた基礎資料によると、美々の先祖の住んだ地は農村地。
そして、 現在多くの同姓が住んでいることから、草分け村民だろう。……、というと ころまでは、前回の講座で把握した。
「もっと深く考えるとね……」
筧先生が一番古い戸籍の本籍地を指さす。
──「青森県南津軽郡飯柳村」の後に「五十五番戸」とある。
今は「○○番地」というように地番がふられるが、昔は「○○番戸」「○○ 番屋敷」というように、家屋敷に直接地番がふられたという。
「飯柳村の戸数は地名辞典によると、明治初年で 71 戸とあったね。この家屋 敷にふられた地番は、村の中心地からふられている。
ということは、『五十五番戸』というのは、 71 戸あった村の中心からはやや 離れていると想像されるんだ」
まず村の中心地に草分け村民が住み着き、お寺や神社ができ、村が発展す る。
「この地の葛西家の総本家は、きっと村の中心地に住み、上層農民として裕 福だったと思う」
しかし、後から分家していった家は必ずしもそうではなかった。
村の端に住んでいたのは、後から村にやってきた人や、本家から離れた分 家の場合が多い。
「江戸時代を通じて、西日本では温暖な気候のおかげで、耕作面積が飛躍 的に広がり、人口も増加していたんだ。だが、その一方で、寒冷な東北地方、 とりわけ青森県では、連年のように凶作に見舞われていた」
青森県の土地は痩せこけ、もう新たに開発をする余地はほとんどなくなっ ていたという。
「そんな青森県の閉塞状態に見切りをつけて、綱次郎氏は未開の大地だった 北海道で、自らの可能性を試したいと思ったのかもしれないな」
そうか……。生まれた地を離れる。親兄弟と離れる。美々には考えたくも ないことだ。
興味本位で家系をさかのぼっていたが、平和な今では想像もつかない厳し い時代でもあったのかな。
「ちょっと待ってて」 と、言って出ていった数分で筧先生は戻ってきた。
手に持っているのは、 『地名辞典 北海道版』。図書館から借りてきたんだろう。
「地名辞典は、何もさかのぼる調査のためだけに使うんじゃないんだ。もう 少し、君の葛西家のことを理解してみよう」
と、言いながら開いたのが、「北海道阿寒町雄 ゆう 別 べつ 村」。綱次郎は、三代前の 丑蔵を連れて、雄別に渡っている。
明治時代は阿寒村大字舌辛村の一部で、本格的な開拓が始まったのは、 明治後期になってからである。明治 30 年代(1896~)から鉄道の枕木や製紙工場で使う材木の伐採 地として栄え、1919(大正8)年には、雄別炭鉱が開業。鉄道線路も 整備され、人口は飛躍的に増加した。
丑蔵が勤務していたのは、雄別炭鉱なのかな?
「きっとそうだと思う」 と、言いながら、ノートパソコンで「雄別炭鉱」を検索している。
「雄別炭鉱は、戦争末期には休業状態になっている。このころ、君の祖父・ 啓治氏はまだ小学生くらいの歳だったろう」
戦争……。
若いころ、綱次郎と共に北海道に渡った、ひいおじい ちゃんの丑蔵さん。生活基盤を築き家族を得たところで、 戦争……。
「そして、系図を見ると啓治氏の兄、徳三氏は昭和8 年にわずか6歳で亡くなっている。戸籍には死因は書か れていないが、昭和に入ったとはいえ、まだ厳しい時代 だったんだろう。
次に、戦後に丑蔵氏が転籍した『釧路市鳥取村』を見てみよう」
鳥取村は、1884(明治 17 )年から旧鳥取藩士が移住して開村した村 であり、故郷にちなんで「鳥取村」と名づけられた。 1920(大正9)年には、富士製紙釧路工場が開業。
「富士製紙釧路工場か……。雄別村の記載に、『製紙工場で使う材木の伐採地 として栄え』とあったな……」 と、言いながら、また検索。
「……つながった。 富士製紙釧路工場で使われた原材料の木材は、雄別を含む舌辛村で切り出 されたもののようだ。もしかしたら、この木材のつながりで、丑蔵氏は鳥取 村に移り住んだのかもしれないな」
すごい! ミステリー小説の探偵のように、手掛かりをつなぎ合わせ、謎を解いてい く。実は美々は、アガサクリスティーの大ファンだった。
その後、丑蔵は家族と共に、釧路市堀川町など、いくつか転々とし、釧路 市内で死亡。 啓治は釧路市で公務員となり、同じく公務員の祖母と出会い結婚。
当時、 公務員住宅を中心とした大型の住宅団地が造成されていた、釧路市白樺 台に 居住。
そして、美々の父・啓介が生まれる。
「安心したんじゃないだろうか。君の祖父の啓治氏は」
葛西家は、大正初期に青森から北海道へ渡った家系。
明治初期からの開発 もほぼ終わった北海道で、恵まれた土地を得ることもなく、妻と子・啓治を 抱えた曽祖父・丑蔵は戦争で職を失う。
おそらくは不安定な暮らしの中、釧 路近辺を転々としながら、祖父・啓治氏は育つ。
きっと楽な生活ではなかっただろう。そして、どういう経過か、祖父・啓 治は公務員へ。
「当時の公務員待遇は、決して恵まれていたとは言えないだろう。だが、北 海道に渡った葛西家は啓治氏の代になって、初めて安定した暮らしを手に入 れたんじゃないだろうか。もしかするとそれで少し気が抜けて、タガが外れ てしまったのかもしれないね」
こういった移住後に苦労した話は、北海道に限った話ではない。 全国どこでも、そういう時代を過ごした先祖がバトンをつないでくれた。
そして、今の平和な世の中がある。
「綱次郎氏の冒険から始まった葛西家の北海道移住は、紆余曲折はあったか もしれないね。
だが、見事に実をつけ花を咲かせ、今、君がここにいるんだね」
第三講(ノウハウパート)概要
先祖が住んだ土地の「市町村史」を調べよう
- 郷土誌の代表「市町村史」
- 先祖が住んだ土地の「市町村史」はどれ?
- 「市町村史」のどこを調べる?
- 「市町村史」をどう読む?
- コラム どうやって資料を探しだす?
「図書館レファレンス」を使いこなそう
- 資料が多いなら、「レファレンス」の利用を
- 依頼の仕方
著者や編纂者に質問するのも「有」
- 「市町村史」の著者に質問してみる
- 古い資料なら、公文書館や教育委員会に
- 公文書館に資料があった場合の注意点
- 教育委員会や公文書館著、あるいは著者への尋ね方
- コラム 戸籍以上の調査のパターンと 難易度
第四講 お墓や菩提寺、家紋を調べよう──本格調査2「人からの情報収集」
※(物語パート)全文公開
美々は、最後の家系図講座を前に少し気落ちしていた。
前回の講義にて行った、図書館の蔵書検索でわかった郷土史の『板田町史 板田町教育委員会』『弘前藩庁日記から見た板田町の歴史 板田町文化財研究 会』『板田町の生い立ち 板田町役場』は、すべて取り寄せて読んだ。
複写を取り、マーカーを引いてある。
- 飯柳村は、岩木川中流の右岸に位置する村落で、弘前藩津軽氏の領地。
- 住んでいた住人には、戦国時代(1467~1568)から同地の近く にいた者と、富山県砺波地方(現在の富山県砺波市)あたりから移り住 んだ者がいた。
- 農業の割合は、ほぼ水田と畑作が半分ずつで、土地の豊かさは「中」。
- 産物は、米のほかに藍 あい 葉は ・大豆・菜種など。
先祖が住んだ村の歴史についてはかなりわかり、興味深かった。
郷土誌の 内容がすべて理解できたわけではないが、飯柳村の歴史を通じて先祖の生活 の様子をうかがい知ることは少しできた。
分厚い郷土誌を読むのは大変だっ たが、いつ自分の先祖が出てくるかとドキドキしながら読んだ。
やっと飯柳村の「葛西」の記載が見つかった。
だが、それはとても残念な一文であった。
【飯柳村の旧家】
飯柳部落は現在戸数百五十戸ほどで、太田氏が六十五戸と最も多く、次 いで葛西氏、野呂氏、千葉氏の順となっている。400年ほど前に植えら れたと思われる飯柳神社の八千代杉などから、そうとう早くから人が住し ていたと考えられるが、住民に関する史料は残っていない。
要は、葛西家は村の旧家の一つであったが、残念ながら、その記録は残っ ていないということだろう。……がっかり。
颯爽と筧先生が入ってきて、最後の講座が始まる。まずは、受講生の進み具合を確認する筧先生。
進み具合はさまざまだ。郷土誌を取り寄せるところまで進んだが、まだ届 いていなかったり読み切れていなかったりする人が、数人。ちょっと遅れて 基礎調査途中なのが、3割。やっと一番古い戸籍にたどりついたのが、3割。 まだ戸籍の請求中だったり、挫折していたりが、3割。
今日までに郷土誌調査をすべて終えて講座に臨んだのは、美々だけだった。
ちなみに、講座全体の人数は全く減っていない。進み具合がどうであれ、 挫折していようと、筧先生の講座はみんなを引き付けている。
「葛西君。……素晴らしい調査だね。よく頑張ったね」
「はい。大変でしたが、楽しかったです」
褒められた。結果は、がっかりだが……。
「素晴らしい成果だよ」
「はい。でも記録が残っていないって……」
「それでも、素晴らしい成果なんだ」
家系調査とは、調査の限界点を知ること。「記録がない」ということを知る のも、大きな成果。
「一歩前進と受け止めよう。限界点を知れば、あきらめることもできる、次 の方針を考えることもできる。次に進めるんだ」
美々の目からポロリとうろこが落ちた。もちろん比 喩 だが。
筧先生に後光が差した気がした。西日が入っただけかもしれないが。
成果がないことも成果……次に進める……一歩前進……美々の中にこの先 の人生のために大事な何か、細いが折れない芯のような何かが通った気がし た。少し背筋が伸びた。
次いで、美々の集めた資料を見て、次段階の調査を補足してくれる。
「郷土誌によると、飯柳村の住民は、元からこの地にいた人と、富山県の砺 波地方から来た人がいたのか。葛西君の家はどっちだったんだろうね?
少し葛西家のルーツについて下調べをしてきたよ」
『津軽藩祖略記』や『日本城郭体系』(新人物往来社 ※絶版)といったなんだ か難しそうな資料を手にしながら筧先生が言う。
筧先生は、毎回受講生の進み具合に合わせて、何かしらの資料を用意してきてくれる。
「北上して青森に住み着いた葛西家を、『津軽葛西一族』と呼ぼう」
津軽葛西一族……カッコいい響きに、美々はワクワクしてきた。
「津軽葛西一族の中には、江戸時代になり津軽藩(弘前藩とも言う)の殿様津 軽氏に仕えて弘前藩士となった系統と、戦国時代に滅ぼされて農民となった 家系があったと思われる」
そうなんだ? なんでわかるんだろう?
「まず、津軽藩士には多数の葛西姓の武士がいます。これは『津軽史』と いった文献に記載された津軽藩の分限帳(藩士名簿)で確認できます。その多 くは津軽葛西一族と考えるのが自然でしょう。」
プロジェクターに弘前藩士の分限帳が映される。
「また、歴史人口学などの研究により、江戸時代の農民の多くは戦国時代に 敗れた武士の子孫か一族といわれています。だからこそ葛西家が北上し勢力 を誇った東北に、現在葛西姓が多いのでしょう。」
筧先生は、プロジェクターを操作しながら話を続ける。
「飯柳村の葛西家は、かつて飯柳村近辺に拠点を構えた戦国武将の子孫や一 族が帰農して、その地に住み着いた末裔じゃないかと思うんだ。そこで、飯 柳村近辺に戦国武将が拠点を構えた城がないか調べてみました。」
各地の城郭研究者や歴史家が執筆した『日本城郭体系』という資料による と、戦国時代、飯柳村とそう遠くない場所に、大 光 寺城という城があったと いう。
現在も、青森県平川市大光寺という地名が残っている。
続いて、『津軽藩祖略記』という資料がプロジェクターに映る。
籍
大光寺城主伊予守 葛西頼清 は葛西清重の裔…
「すなわち、飯柳村のすぐ近くの大光寺城に葛西姓の始祖葛西清重の子孫葛 西頼清という戦国武将がいたんだ。」
さらに別の資料が映される。
籍
天文二(1533)年、石川 高信 ・大光寺城主伊予守葛西頼清を襲ひて之 これを滅ぼす……
「石川高信とは、戦国時代の南部藩(盛岡藩)の武将だ。もしかすると、大光 寺城が攻め落とされたとき、葛西頼清の子孫や一族が飯柳村に逃れて農民に なった家系が君の葛西家かもしれないな」
当時の城や藩に注目する調べ方があるのか……。
「葛西君の家には、『家老』という聞き伝えがかすかに残されていたようだ。 江戸時代は武士ではなかったようなので、江戸時代の津軽藩の家老ではな かっただろう。津軽藩の分限帳にも葛西姓の藩士は多数見えるが家老に葛西 氏はいないようだ。
だが、江戸時代以前は大光寺城主、あるいはその近い一族で家臣だったと したら、もしかすると聞き伝えはこのことを指しているのではないだろう か?」
と、筧先生は言う。
「聞き伝えが、必ずしも正しいとは限らない。だが、聞き伝えには、必ず何 かしらの真実が含まれている。城主あるいはその『家臣』というのが長い年 月の間に形が変ってしまうこともあるだろう」
「城主」あるいはその「家臣」がいつの間にか「家老」に……。
筧先生の話はさらに続く。美々は夢中でメモを取る。
「もう一つ。葛西君が調べた郷土誌によると、飯柳村には富山県の砺波から 移り住んだ家もあるというから、そちらである可能性も考えないとな」
なんで富山から青森の飯柳村に移り住んだ人がいるんだろう? そもそも 江戸時代は、通行手形がなければ関所を通れないなど、人の移動に制限が あったという話だったが。
「『欠落(かけおち)』っていうんだ。要は、夜逃げに近いものなんだ」
江戸時代、富山県は加賀藩(金沢藩)前田氏の領地。年貢が重く、領民の欠 落が相次いだという。
そして欠落には、手引きをする者がいたという。
「例えば、欠落の例として富山県砺波地方から福島県の相馬へ逃れたという ルートがあるのは、公的文書には残っていないが、富山の歴史研究家の間では有名な話なんだ。
砺波地方から青森への欠落は初めて聞いたが、もしする と何かしらのルートがあったのかもしれないね」
いかに人の移動に制限があろうと、すべての人々を完全に管理下に置ける わけではなかった。逃げ出す者もいればそれを手引きする者もいた。
逃亡先 を領地としている藩にとっても、労働力が増えるメリットがあるので、黙認 されていた面もあるのだろう。
歴史の裏舞台のような話に、みんな引き付けられる。
「飯柳村の葛西家が砺波から来た家系である可能性があるものかどうか? ちょっと考えてみよう。」
まずは飯柳村に数多くの葛西家がいることから、葛西家が古くからこの地 に住んだ家系であることは間違いない。
「古くから住んで分家を繰り返さないとこれほどの数にならないだろうから ね。欠落で後からこの村にやってきた家であれば、これほど村内で勢力を持 つことは難しいだろう。」
ということは、飯柳村の葛西家が欠落で富山からやってきた可能性はかな り低いと考えられる。
「だが、もう一つ考えなければいけないのが、この地 に古くから住んだ葛西家とは別に、偶然同じ苗字の葛 西家が欠落してきたという可能性だ」
同じ村内で同じ苗字でも、ルーツが違うことはたま にあるという。
その場合は互いに別の伝承を持ち、別 の家紋を使い、別の菩提寺を持つなどが起こりうる。
「その可能性があるものか、まずは砺波地方に葛西と いう苗字があるかどうかを見てみよう。」
電話帳ソフトで、富山県の葛西姓の数を確認する筧 先生。
「富山県の砺波地方にも、多くはないがある程度の数 の葛西家がいるようだ」
富山県砺波地方にも葛西という苗字がある…という ことは、砺波地方の葛西家が飯柳村に欠落してきた可能性もゼロではないということだ。
富山県の葛西家のルーツを知るには、また別途調査が必要だという。
「これを知るには、砺波地方の苗字辞典や郷土誌で葛西姓について調べたり、 場合によっては、富山の葛西家にアンケート調査を行ったりすることだね」
そんな調べ方もあるのか……。
「だが葛西君の場合は、その前に飯柳の葛西家にアンケート調査を行って、 お寺やお墓を聞くと同時に、地元の伝承を聞くのがいいかもしれないね」
地元に、「大光寺城主葛西氏の末裔」という聞き伝え、あるいは「富山から 来た家系」という聞き伝えが残されていないか?
その後、美々以外の受講生への個別アドバイスを挟み、最後の講義へ。
今日は、本格調査の二回目。
本格調査②「人からの情報収集」
- 同姓へのアンケート調査
- 菩提寺への「過去帳」調査
- 墓石調査
最後の家系図講座は、滑らかに進む。いつものように必死にメモを取る 美々。
「これから行う調査は、今までのように戸籍を取り寄せたり、郷土誌などの 文献を読んだりという調査とは全く変わってきます」
特に知りたいことは、3つ。 「家紋」 「菩提寺」 「お墓」
……美々の家はどれもわからない。
「その他に、地元でのルーツの伝承なども聞きたいところです。
このようなある家の個別で具体的な家系の情報は、郷土資料のような文献 に記載されることは少ないです。地元の同姓やお寺から情報を求めなければなりません」
この先は、人が頼りで、相手あってのこと。郷土誌調査以上にやってみな いとわからない調査だという。
「さかのぼることに関して一番いいケースは、本家やお寺に『過去帳』があ り、350~400年前の江戸時代初期まで判明というケース」
もっといいのが、地元に当家の江戸時代以前の具体的なルーツの伝承…… 「源平藤橘」か藤原氏のいずれかであるなどが残されていて、1000年以上 前まで判明するケースだという。
「例えば、葛西さんの場合だと……」と例にあげる。
「板田町飯柳 34 軒の同姓にアンケートを送った結果、協力していただける同 族が見つかり、本家や菩提寺、お墓が判明し、『過去帳』も見せていただける。
そのうえでさらに、『飯柳の葛西家が大光寺城主葛西氏の末裔だった』とか、 あるいは『富山から飯柳に来た』などという具体的な伝承が判明すると、さ らなる調査が可能になるかもしれません」
もしそうなれば、先ほども聞いたように大光寺城主葛西氏のルーツを調べ たり、富山県の同姓に改めてアンケートを送り伝承を尋ねたりするなどの方 法が考えられるという。
「これが一番いいケースで、場合によっては、1000年さかのぼれる可能 性が出てきますが、いろんなケースが考えられます」
アンケートを送った相手が全面的に協力してくれることもあれば、そうで はないこともあり得る。
「またご協力いただけたとしても、菩提寺や本家は確定できたが、過去帳や お墓は消失していないというケースもあり得ます。地元の伝承が残っていな かったり、曖 あい 昧 まい になってしまったりしていることもあるでしょう」
筧先生がレジュメを基に具体的なアンケート内容や注意点を教えてくれる。 最後の講座が終わりに近づく。
この先の調査では、1000年前まで、ほとんど空白なく直系人物が埋ま る可能性もある。
すべての空白が埋まらず、一部空白になる場合もある、全 く何もわからないこともあり得るという。
「とにかく礼を尽くして尋ねることです。
心配なのが、戸籍に保管期限があったように、人からの情報集めも“時間 との勝負”の面があります」
古きを知る方がだんだん少なくなっているからだ。
「家系調査は、普段の生活に必要ありません。あってもなくても困りません。 急ぐ理由はなく、気になりながら後回しになりがちです。
ですが、この機会に『やれることはすべて行ってみる』と思われた際は、 なるべく早く動きましょう!
皆様お疲れさまでした!」
ご年配男女の柔らかい拍手の中、美々も拍手しながら、「はい! この機会 に動きます!」と思った。
これで終わりか……さみしいな。
「それでですね。この先も調査は続きます。まだ戸籍を取っている途中で あったり、資料集めの途中だったりする方もいます」
!? 筧先生が語り掛けるように話し始めた。
まさか?
「もしよかったら、補足講座を行いましょう。今が 11 月。来年の2月くらい がいいかと思いますが、いかがでしょうか?」
当然、満場一致。
講義後、素直な美々は、そのまま講義室に残り、かつて同族であったであ ろう飯柳の葛西家への手紙を、筧先生からもらった見本文を見ながら書き始 めた。
第四講 お墓や菩提寺、家紋を調べよう──本格調査2「人からの情報収集」
※(ノウハウパート)非公開
第四講(ノウハウパート)概要
同姓へのアンケート調査をしよう
- 同姓に家系を尋ねる
- 何軒くらい送る?
- 質問は3つまで
- 返信率を上げるコツ
- 返信がない、または手掛かりがないときは…
- コラム 同姓や菩提寺への電話や訪問はOK?
菩提寺への「過去帳」調査&墓石調査
- お寺の「過去帳」調査で、1600年代までさかのぼれる
- お寺がわからない場合は?
- 神道の場合は?
- アンケートの送り方
- お寺へのアンケートの注意点
- 返事が来て、いよいよお寺を訪問!
- お墓の所在を確認し、墓石からも先祖情報を得る
- 菩提寺・過去帳・戒名・墓石の知識
- コラム 地元の公民館への問い合わせ
「家紋」を知って、先祖のルーツを選択しよう
- いつからある?
- 種類は、どれくらいある?
- 「苗字」との関係は?
- 家紋の参考書
- コラム 家紋に丸が付くのが多いわけ
第五講 世界に一つしかない『自家の歴史書』──家系調査をまとめると、家宝になる
※(物語パート)全文公開
美々は久々にちやほやされていた。
なぜかついてきた妹の清美(中3。受験 済み)は、さらにちやほやされていた。
勝手についてきながら、 30 円しかもっ ていなかった清美の受講料は、美々が払った。
3カ月ぶりの筧先生は、やはり颯爽と入ってきた。
美々と同じくアンケート調査まで終えた人。それどころか早々と現地に 行ってきた人。まだ途中の人。挫折したままの人。
受講生はさまざまだったが、補足講座への出席率はほぼ100%だった。
挫折した人にとっても、筧先生の話は面白いのだろう。そもそも自分の家系 にさほど興味はないが、歴史が好きだからと通っている人も少なくない。
一人ずつ個別に筧先生がアドバイスをしている間に、昨年の4回の講座で 打ち解けた受講生が、それぞれの成果を報告し合う形式になった。
美々の番になる。
「久しぶりだね。葛西君。初めまして妹さん。アンケート結果はどうだった かな」
「はい」
アンケートの返信。その後の手紙のやりとりを見せる。
昨年 11 月に飯柳 34 軒の葛西家に出した手紙。
2週間ほど経った 12 月に、一 通の返信があった。
(1)家紋を教えてください。
丸に三つ柏です。
(2)菩提寺の宗派・名前・住所を教えてください。
※ 是非お墓参りをしたいと考えています。差し支えなければ、お墓 の場所もお教えください。私の家の現在の宗派は曹洞宗(禅宗)で すので、板田町の「竜渕寺」「慶峰寺」「直指院」いずれかではな いかと思うのですが。
お寺は、本家と同じ竜渕寺(板田町飯柳○○番地)です。松之助の墓 は本家に並んで竜渕寺にあります。 現在供養しているのは、本家の葛西○○(板田町飯柳○○番地)です。
(3) 私の先祖である以下の人物の名を聞いたことはありませんでしょう か? ※「葛西松之助」「葛西権八郎」「葛西綱次郎」
あります。 本家に代わりお答えいたします。私は 90 歳で、初代松之助から5 代目になります。2代松之助が私のひいじいさんの兄です。 綱次郎については、本家の話では北海道に渡った親族がいるのは 確かだから、それが綱次郎だろうとのことです。まだ若い子どもを連れてい たそうです。 こちらへ来ることがあれば、お墓へご案内いたします。
以上
平成 30 年 12 月 10 日 葛西 常造
「同族が見つかり、家紋もお寺も判明したんだね。素晴らしい成果だね」
「はい」
「家紋は丸に三つ柏か。これは苗字の始祖、葛西清重が好んだ家紋だよ。切 れ目なく一千年近くも受け継がれてきたんだね」
さらに、その後のやりとりを伝える。
「お礼のお手紙と、北海道のお菓子をお送りしました」
同時に、さらに3つ尋ねた。
- 「過去帳」があれば、見せていただけるでしょうか?
- 菩提寺である竜渕寺に、「過去帳」の有無を問い合わせていいでしょ うか?
- 何かルーツの伝承など、残っていますでしょうか?
「なるほど。3のルーツ伝承については、郷土誌や『津軽藩祖略記』のコ ピーも同封したんだね」
郷土誌の「飯柳村の住民はもともとこの地にいた人と、富山県と砺なみ波 地方から移住した」という部分。また、「戦国時代、大光寺城というお城に葛 西頼清という城主がいた」という部分。
2つを同封し、3のルーツ伝承について具体的に尋ねてみた。
大光寺城主葛西氏の末裔 、あるいは富山県から来たなどという聞き伝えが 残されていないだろうか?
「素晴らしい調査だね。アンケート調査の見本のようだよ」
褒められた美々だが、コピー同封は清美のアイディアだった。
文面に悩む 美々に、ひと言「コピー入れればいいじゃん」。
家系調査の経過は、夕食後のリビングで家族に時折伝えていた。
母は変わらず興味を持ってくれていた。
父は相変わらずさほど興味がないようだったが、北海道に渡った葛西家へ の筧先生の見解の話を披露したときには、しみじみ聞いてくれていたように 思う。
いつも一缶で終わる食後のビールの後、珍しくウィスキーを持ってきてド ンと置いた。
「美々、ついでくれ」と言うので、素直な美々はついでみた。
お酒のことがよくわからない美々は、水も氷も入れずタンブラーに並々と 注いだ。
父は「殺す気か」と笑いながらも、ちびちび飲み干し酔いつぶれた。
美々の父は、美々が初めて作った海水のような塩分濃度の味噌汁も、清美 の指紋が付いた手作りチョコも全部喜んで食べる人だった。
ともかく、家族には少しずつ家系調査の成果を伝えていた。
うら若い女子高生がなんと地味な趣味を持ったものだろう……だが、それ も美々らしいね、というような空気ではあったが、調査が進むにつれ地道に 関心は高まっていた。
同姓へのアンケートの返信で、お寺やお墓が判明したときには、美々はも のすごく興奮した。
先祖のお墓の発見に家族も結構盛り上がり、お礼のお菓子を何にするか、 さらに何を聞くべきか、美々に任せず両親もお礼をすべきか、などなど…… 家族で相談したものだ。
結局は、引き続き美々がやりとりするが、家族写真を同封し、父が感謝の 意を手書きで添えることにした。
それに対する返信。
ルーツや「過去帳」については詳しいことはわかりません。ただ、どこか のお城の主だったとは、かすかに聞いた気がしております。年末に親族が集 まりますので、本家に確認のうえ、年明け早々にご連絡させていただきます。
竜渕寺に「過去帳」があるかわかりませんが、ご住職とは親しくさせ ていただいております。こちらも尋ねておきます。
追伸 美味しいお菓子ありがとうございます。ご家族のお写真拝見いたしま した。お顔立ちが私たちにそっくりで驚きました。また、詳しい調査に 驚いてもいます。逆に私たちも家系に興味が出てきています。何かお調 べになったことは、逆にお教えいただきたいと思っています。いつかお 会いできることを。
さらに丁重なお礼を送っておいたところ、年が明けてから次のような内容 で返信があった。
- 確かにどこかのお城の主だったとは、本家にも伝わっている。
- だが本家も代が変り、詳しい人間は他にはいなく、具体的なことはわ からない。
- 富山県から来た家ではない。葛西ではない別の苗字で、富山県から来た家は確かにある。
- 昔からこの地に住んだ家と、富山県から移り住んだ家は、かつては確 執らしきものはあったようだが、今は誰も気にしていない。
- 本家には、初代が寛永没のかなり古い「過去帳」がある。住職にも話 をし、本家とお寺の「過去帳」を照らし合わせておく。
- ただし、「過去帳」はボロボロでコピーをとることはできないので、来 ることがあればお見せする。
「素晴らしいね。いつか行ってこられるといいね」
家族とも、「いつか行こう」という話はしていた。美々はすぐにでも行きた かった。
「彼らの協力のお礼に、葛西君の調査結果をまとめて、お送りしてあげると いいかもね。僕も手伝うよ」
筧先生は、最後のレジュメとして、家系についてのまとめ方のひな型をく れた。
連絡先も教えてくれた。また、受講を終えた生徒さん達と定期的に 行っている、勉強会への参加も進めてくれた。
「あれからいろいろ考えたんだが、もう一つ、君のおじいさんの記録が残っ ていそうなところがあるよ」
美々と清美は、「赤れんが」にいた。
途中でチロルチョコを買ったため、9 円しかなかった清美の地下鉄代は、美々が払った。
北海道立文書館、通称「赤れんが」。
北海道庁旧本庁舎で観光地として有名 だが、中に入ると、北海道関連文書の博物館がある。
箱館奉行、開拓使や道 庁の職員名簿、松前藩士の廃藩時の名簿などがあるという。
ここが、筧先生が言った「もう一つ、おじいさんの記録が残っていそうな ところ」だ。
釧路市の公務員の名簿に、祖父「啓治」の名があった。「○○部第○課」。
高卒で公務員になったはずだから、今の美々とそう変わらない年の祖父。「平 職員」。
「おばあちゃんもあった」
隣で年度ごとにまとめられた名簿をさかのぼって見ていた、清美の声。
10 名ほどの職場に祖母「巴」の名が加わった。共に平職員。
数年後、巴の苗字が「葛西」になった。結婚したのか……。職場結婚とは なんとなく聞いていた。
さらに翌年、祖母の名が名簿から消えた。父・啓介を産み、そのまま退職 したと聞いている。
祖父に役職が付いた。
「順調だったんだね」 清美が過去形で言った。
生まれたときからかわいがってもらい、ついこないだまで一緒に暮らして いた、祖父母の若かりしころの姿が浮かんだ。
「赤れんが」を出るとき、清美がぼそっと言った。
「お父さんは泣きたかったんだよね」
……やっぱりそう思うか。
清美は鋭い。自分のことしか考えていないようで、家族のすべてを把握し ている。
父・啓介は優しい。母にも、美々にも、清美にも、祖母にも、猫にも、亀 にも、熱帯魚にも、友人・知人・他人にも。
18 年も一緒に暮らしていればわ かる。
でも、祖母に大変な思いをさせた祖父だけは、愛したくても愛せなかった んだろう。
美々は特に返事をしなかったが、清美にクレープをおごってやった。
2つ も食べやがった。
その後、美々は筧先生の勉強会への参加を続け、筧先生やその生徒の協力 のもと、ひな形を基に、『葛西家の歴史』をまとめた。
この“葛西家だけの歴史書”の「編集後記」は、筧先生が書いてくれた。
最後には、自分で「あとがき」を書いた。
小学生の作文みたいな文になっ たので、恥ずかしいから消そうかな? とも思ったが、一生懸命書いたので 残すことにした。
コンビニでコピーし、書店の製本キットで簡易製本し、家族に配った。
もちろん、飯柳の同姓にも数冊送った。
第五講 世界に一つしかない『自家の歴史書』──家系調査をまとめると、家宝になる
※(ノウハウパート)非公開
第五講(ノウハウパート)概要
家系調査をまとめて、歴史書を作ろう
- 『〇〇家の歴史』〇〇 〇〇編
- 第一章 〇〇家の歴史
- 〇〇家の系図・〇〇家の歴史概要
- 〇〇家のルーツ
- 〇〇家の家紋
- 第二章 江戸時代の〇〇家
- 〇〇家の住んだ地
- 菩提寺
- 墓石
- 第三章 近代~現代の〇〇家
- 〇〇家の人々
- 調査課題
- 参考文献一覧
- あとがき
- コラム 巻物? 掛軸? 冊子? 家系図の保存方法いろいろ
プロローグ 先祖が住んでいた地へ
※全文公開
葛西家の4人は青森にいた。
美々にとって高校最後、清美にとって中学最後の春休み。
本当は 10 年ぶり に、家族でディズニーランドに行く予定だった。
だが、彼らは今青森にいる。
家族会議を経て、先祖の墓参りに変更したの だ。
当然、清美はブーブー言ったが、さほど強く抵抗しなかった。
札幌から青森までは車で来た。函館からフェリーに乗った。4泊5日の旅。
函館に一泊しているし、帰りも1日がかりなので、青森滞在は実質2日。
父・啓介は家を出るとき、いつもの無精ひげをさっぱりそり落としていた。
青森初日の昨日は、半日時間があったので、飯 いい 柳 やなぎ 町立郷土資料館と飯柳神 社に寄った。
郷土資料館には、頭に被って祭用に使用されたという「三度笠」や「足袋」 「防空頭巾」など、古くは江戸期のものから昭和期のものまで、地元住民が残 した生活用品などが展示されていた。
「藩政時代~○○家所有」というように、 具体的な所有者の名や、所有していた家が書いてあるものも多かった。
葛西 家は地元旧家だけあり、「鉄 瓶(藩政時代~葛西家所有)」などと、葛西家の使っ ていたというものも複数あった。
飯柳神社では、周りを囲む柱に奉納者の名が刻まれており、美々の先祖で ある綱次郎の名も刻んであった。
敷地内の巨大な杉の木は、郷土誌にも記載のあった八千代杉 。
400年ほ ど前に植えられたと推測されており、地名辞典に記載のあった「飯柳村は正 保年間(1644~1648)から開発が始まる」という根拠の一つでもあると いう。
江戸時代を通して先祖を見守ってくれていた木だ。
家族を代表してという 雰囲気で、父・啓介が深く頭を下げた。
いつもは清美がふざけて選んだ変な イラストのTシャツを着ている啓介は、青森に入ってからずっとスーツ姿だ。
ビシッと決まったカッコいいお辞儀だった。
子どものころから、よい感じの木を見ると必ず登り始める清美も、登らず にぺこりとお辞儀をしていた。
そして今日。アンケートに返信をくれた葛西常造氏に会った。
約束の時間 に伺うと 90 歳の優しそうなおじいさんが迎えてくれた。
お子様夫婦に、近所 に住むお孫さんと、曾孫さんも来てくれていた。
最初はお互い緊張したが、5歳と3歳の曾孫ちゃん達が美々と清美に懐い てくれたのですぐ打ち解けられた。
「綱次郎さんと丑蔵さんが北海道に行ったのは、ちょうど100年前なんだ ねぇ。よく来てくれたねぇ」
感慨深そうに美々達を見つめる常造氏の目と眉の形は、啓介とそっくり だった。
3歳の女の子と清美の顔立ちはそっくりだった。
65 歳の常造氏の娘 は美々に似ていた。
それぞれがどこかここか似ていた。
仏壇から出してくれていた「過去帳」には、戸籍で判明した一番古い松之助のお父さんまで乗っていた。名前は同じく松之助。
「これより古い『過去帳』は、本家とお寺にあったみたいだよ」と常造氏。
美々は講座で習った「過去帳」の知識を思い出した。「家の『過去帳』には 分家後のご先祖様のことしか記載されていないことが多い」と筧先生は言っ ていた。
ということは、常造氏宅の「過去帳」に載っている一番古い松之助さんが、 本家から分家して来たのかな?
筧先生は「分家初代」って言葉を使ってい たなと美々は思った。
「お寺で本家と住職に待っててもらっているから。案内するよ」という常造 氏の案内で葛西家の菩提寺竜渕寺に行った。
100歳になろうかという住職と 60 代の本家の当主が迎えてくれた。
常造 氏と曾孫ちゃん達の仲介でスムーズに打ち解けることができた。
住職は、「葛西家以外の檀家の情報も書いてあるから、お寺の『過去帳』の 中身は絶対に見せられない」と言って、本家の仏壇の「過去帳」とお寺の 「過去帳」を住職自ら照らし合わせ、葛西家の戒名のみまとめたものを見せて くれた。
分家初代・松之助よりさらに6代ほどさかのぼった寛永 20 (1644)年没 の先祖まで載っていた。名は代々「清 きよ 之の 助 すけ 」を継いでいるようだった。
講座では「寺請け制度」が始まり、お寺に「過去帳」が備え付けられたの が寛永10 (1634)年ごろと言っていたから、これが過去帳でさかのぼれる 限界点なんだろう。
本家は代々「清之助」を継ぎ、分家した美々の家系は分家初代から「松之 助」を名乗ってきた。
これが代々続く農家でよく見られた、名前を丸ごと継 ぐ襲名。
メモを取りながら美々は講座で習ったこと、調査したことを思い出しなが ら、いくつか疑問点をまとめて本家の人に聞いてみた。
清美は住職にまとわりつく曾孫ちゃん達を引きはがしながら遊んでいた。
父・啓介も母・晴 はる 美み も大人同士の挨拶以外は口をはさまず、調査に関するこ とはさりげなく美々に任せてくれている。
本家が代々「清之助」を名乗っていた件については、本家の方のひいおじ いちゃんくらいまでは清之助。その後はさすがに襲名のような習慣は廃れた のか、「清」の字だけを継いできたという。
本家の方は「清造さん」というそ うだが、自分の子どもには特に「清」の字は付けていないとのことだった。
「今時代、もう名前も自由でいいかと思ってね」と常造氏。
常造氏が言うにはルーツについては詳しく聞いておらず、詳しい人間もも う残っていないが、どこか近くのお城の城主とは確かに言っていた。
「ただ『清』という字は大事だというようなことを言っていたからね。今思 えば、美々さんが調べた、『葛西』苗字を使い始めた葛西清重とか大光寺の城 主の葛西頼清の『清』と関係あるのかもしれないね」
常造氏はあまり家系について興味はなかったが、美々の作った冊子『葛西 家の歴史』を見て感心したらしく、「私も地元の古い人にいろいろ聞いて調べ てみるよ」と、今後も連絡を取り合って調査することを約束してくれた。
住職や常造氏との話もひと段落し、あとは先祖への100年ぶりのご挨拶 を残すのみとなった。
そして今、お墓の前にいる。
昭和に入ってから新たに建てられた、葛西家代々のお墓。その後ろに、古 いお墓が複数。
かすかに「葛西松之助」と読めるものや、ただの苔 こけ むした石にしか見えないものもある。
一歩前に出た啓介が、愛せなかった父・啓治の過去に、深く、深く頭を下 げる。
耳の裏が真っ赤だ。肩が震える……。
多少の涙なら、見ないふりができるのだが……。