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【ルーツ報告書作成例】

報告書の例】江戸期は空白だが中世・古代の家系が明確な例

① ○○姓のルーツは新羅国の王族

○○姓のルーツをさかのぼると古代朝鮮半島にあった新羅(しらぎ)国の王族○○(○○)氏にたどり着くといわれています。新羅国は4世紀から10世紀にかけて朝鮮半島を支配した王国で、その始まりは古代中国の秦(しん)帝国から移民した人たちが作った国といわれ、古くは秦韓(辰韓)国と呼ばれていました。新羅といわれるようになったのは6世紀以後です。そのころ古代中国の唐(とう)帝国が朝鮮半島に侵攻を開始します。660年には百済(くだら)国を、668年には高句麗(こうくり)国を滅ぼしましたが、新羅国は唐に協力したことによって生き残り、両国が滅亡すると唐と対立する関係となり、その勢力を半島から駆逐して朝鮮を統一しました。しかし、9世紀になると新羅の国力は衰えをみせはじめ、百済や高句麗の残党が再起を謀り、後百済国と後高句麗国を建国。半島に三国が並び立つ鼎立(ていりつ)時代を迎え、935年に新羅国の最後の王・敬順王が後高句麗国を滅ぼして新たに高麗(こうらい)国を樹立した後高句麗の武将・王建に攻められ、降伏したことによって新羅国600年の歴史は幕を閉じました。

② 新羅国王の○○氏

新羅国には、確認できるだけで3氏の王朝がありました。新羅という国名を名乗る以前に秦韓(辰韓)時代の王族だったのが「朴(バク)」姓で「赫居世」から始まります。朴赫居世は紀元前57年に13歳で辰韓(秦韓)国の王位に着いたといわれています。次に王となったのは「昔」姓の「脱解」、そして最後の王族が「○○(○○)」氏で初代を○○閼智といいます。閼智には有名な誕生譚があります。それによると、昔姓が王族だったとき、首都○○城(現在の韓国慶尚北道慶州市)の始林という場所の木に○○色の小箱が吊るされ、その下で白い鶏(にわとり)が鳴いているのを王族が発見しました。箱を開けてみると、美しい男の子が寝ていたので、新羅王はその子を育てることにしたのです。すると、その子は実に聡明な青年に育ったので、王は「知恵者」を意味する閼智という名前を与え、○○の箱に入っていたので「○○」という姓を名乗るように命じたといいます。これが○○姓の創姓神話です。初代・○○閼智の子孫は後に新羅国王に即位し、その血には滅ぼした百済(くだら)王族の血が色濃く混じっているともいわれています。

③ 新羅国の滅亡

新羅国は676年に半島から唐の勢力を追い出し、朝鮮半島全域を支配することに成功しました。そのときの王は文武王といい、姓名は○○法敏です。新羅国は唐にならって官位制度を整え、降伏した百済国や高句麗国の王族や貴族を大勢家臣に組み入れました。日本との外交も盛んになります。しかし、780年以降は王位継承を巡って内紛が後を絶たなくなり、822年には王族の○○憲昌と梵文父子が反乱を起こし、農民の一揆や地方豪族の独立も相次いだため、国力は日に日に衰退し、王位も○○氏から朴氏に譲られるなど混乱を極めます。そして最後の新羅王には、再び○○氏から選ばれた敬順王がつきました。ところが、892年には朝鮮半島の南西部に新しい百済国を標榜(ひょうぼう)する後百済国が誕生し、901年には新羅王族の弓裔が北部に後高句麗国を建国します。世は三国時代へと移行したのです。そのなかで後高句麗国の武将であった王建が918年に弓裔を追放して建てた高麗国が勢力を伸ばし、935年には新羅国の最後の王・敬順王が高麗に降伏したため、新羅国は滅亡しました。

④ 日本へ渡来した○○一族

新羅国は多くの王族を外交使節として日本に派遣していました。天智天皇の在位7年(668)に来日した○○東厳、同10年(671)の○○萬物、持統天皇の在位元年(687)に訪れた○○霜林、同9年(685)の○○良琳、天平勝宝4年(752)の○○泰廉などが記録に見えます。彼らが古代日本にもたらした文化・技術の影響は計り知れないものがありますが、とくに日本人が欲しがっていたのは新羅の進んだ採掘技術でした。新羅は慶州の新羅王族の古墳から大量の○○製品が出土していることからも分かるとおり、優れた金の採掘技術をもっていたのです。そんな技術者の一人が日本に渡来した○○徳師でした。○○(○○)徳師は武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県)に住み着き、天平5年(733)に彼の家臣と思われる新羅人53人とともに京の朝廷から「○○(○○)」姓を授けられています。この徳師が○○閼智の末裔であることは様々な記録が認めていますが、誰の時に渡来したのかは歴史の空白となっています。しかし、新羅国王・太宗武烈王(在位654~661年)の甥で外交使節として671年、天智天皇に拝謁した○○萬物の子、○○許満が690年に新羅人12人を率いて武蔵国(現在の東京都・埼玉県)に住み着いたという記録がありますので、徳師はその子孫と考えるのが妥当でしょう。徳師の先代までは朝鮮風に○○を「○○」と読ませていましたが、天平5年(733)に聖武天皇は○○を「○○」と読ませることによって、彼らに日本人としての姓を与えたのです。

⑤ 東北の金山と○○氏

徳師が京のある近畿ではなく関東の武蔵国を定住地として選んだのは、関東の未開発の○○山が魅力だったためかも知れません。そして徳師の子、知仙はさらに北上して現在の宮城県栗原郡へと本拠地を移しました。延暦15年(796)のことです。このころになると東北地方にも大和朝廷の威光が届くようになり、西国からの移住者が増え始めていました。また現在の宮城県から岩手県にかけて、金山が次々と発見され、膨大な量の金が産出し始めたころでもありました。古代におけるゴールドラッシュです。それを知った知仙は配下の新羅人を率いて移住したのです。栗原郡で○○の採掘にとりかかった知仙は、その一部を京の朝廷や貴族に献上し、その代わりとして官職を授けられるようになり、その子・美祢麻呂は外従六位下勲七等の位階を与えられ、鎮守府軍曹に任じられました。鎮守(ちんじゅ)府とは、朝廷が東北支配の拠点として現在の岩手県に置いた軍事施設で、長官の将軍の下に将校である軍監や軍曹、さらに兵卒である鎮兵などが駐屯していました。○○氏は知仙が鎮守府軍曹となることにより、金という財宝とともに軍事力も手に入れたのです。

⑥ 気仙郡司・○○為時

知仙のひ孫、息雄は貞観4年(862)に気仙郡の大領となります。気仙郡は現在の岩手県南部で、大領とは気仙郡を支配していた郡司の補佐官です。以後、○○氏は12世紀まで気仙郡の大領や郡司を世襲し、○○の採掘を続けながら軍事力を強めてゆきます。11世紀の中頃、東北の最大勢力は658年に朝廷の命令で東北の蝦夷(えみし)を討伐した名将・安倍(阿倍)比羅夫将軍の子孫という安倍氏でした。○○氏もその旗下に加わり、婚姻関係を結んだことによって安倍氏の子孫という系図まで作られます。この安倍氏が京の朝廷と対立し永承6年(1051)に前九年の役といわれる戦乱を引き起こすと、○○一族は安倍方と朝廷方に分裂し、安倍方には「驍勇(ぎょうゆう)驃悍(ひょうかん)(勇ましく強い)の精兵」といわれた○○師道や○○依方が従い、朝廷方には本家筋で気仙郡司だった○○為時が加わりました。為時は陸奥守(東北の行政長官)の源頼義に味方して、退却戦の殿軍(しんがり)(最後尾の守り)を務めるなど大いに活躍し、戦乱は安倍氏の滅亡で終えんを迎えます。これにより以後は○○為時の子孫と、安倍軍に加わったものの後に許された為時の弟・為行の子孫が栄えることになります。

⑦ ○○氏の一族が○○姓を名乗る

安倍氏のあとに東北の覇王となったのは、奥州藤原氏でした。この藤原氏は中尊寺の○○色堂など黄○○を豊富に持っていたことで有名ですが、その背後には長年、○○の採掘と関わってきた○○氏の協力があったものと思われます。 12世紀以降になると、○○一族も枝葉が増え、本家と分家を区別するため、さまざまに苗字を変化させてゆきました。まず○○から「○○」「○○」「○○」「○○」など、同音異字に書き方を変える分家があらわれ、次いで「○○野」「○○野」「○○野」「○○野」「○○野」と「○○」の後ろに「の」を付ける分家もあらわれました。これらの書き換えには地域的な特徴も見られ、宮城県には「○○」と「○○野」、岩手県には「○○野」と「○○」、青森県には「○○」、秋田県には「○○」、福島県には「○○野」が多く、さらに○○一族は北陸地方にも進出して新潟県の一族は「○○」、富山県では「○○」と名乗っています。

⑧ 青森県で広がった「○○」一族

2009年の電話帳によれば、青森県には1820軒の○○さんが住んでおり、県で23番目に多い苗字です。この○○一族が、遠い祖先である気仙郡司・○○為時とその弟・為行以後、大いに広がった「○○」一族の系図のなかで、どの系統に属するのかは○○後も調査を続ける必要がありますが、青森県に「○○」一族が現在のように増えた理由はおおよそ推測がつきます。 それは江戸時代(1603-1867)、青森県の西部を支配した弘前藩の藩祖・津軽為信(1550-1607)の先祖が実は○○氏だという説が有力だからです。古い記録によれば、津軽為信の先祖は大浦姓を名乗り、さらに遠い祖先は○○氏の流れをくむ岩手県の豪族・久慈(くじ)氏の一族だといわれています。事実、それを実証するかのように為信の数代前の先祖である大浦威信の弟は○○備前守為元と称しています。 このように津軽氏と「○○」氏は密接な関係にあったため、領内でもひときわ優遇され、大いに増えたのではないかと思われます。また「○○」を「○○」と書き換えたのは、藩主津軽家の祖先である「○○」をそのまま使うことをはばかったためかも知れません。いずれにせよ古くから津軽家に仕えていた「○○」家が多く、明治5年(1872)の弘前(津軽)藩の武士の名簿にも、○○貞次郎、○○浅吉郎、○○栄八、○○彦蔵、○○沢七、○○省内をはじめとして大勢の○○姓の武士が記載されています。


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